幕末から明治の端境期には多くの若者が我も我もと海外へ旅立った。福沢諭吉、渋沢栄一、新渡戸稲造、新島襄、岡倉天心、森鴎外、夏目漱石・・・・。彼らは宗教、言語、人種の異なる地で、時には挫折しつつも、先進文化を貪欲に吸収し、人一倍視野の大きな人間となって帰国した。そして日本で後世に残る大きな事業を成し遂げたのである。人並み以上の向学心や探求心、不屈の闘争心が成功の道を切り拓いたのだ。
内村鑑三も同様に海外を志向した一人であった。札幌農学校(現北海道大学)に進んだ内村は、「Boys, be ambitious」で知られるクラーク教頭が残した「イエスを信じる者の誓約」に署名し入信する。24才の時に単身渡米し、マサチューセッツ州にある名門・アマースト大学に入学。卒業後、ハートフォード神学校でキリスト教を学び、28才で帰国をしている。その後の活躍は周知の通りである。
本書は1894年(明治27年)7月に、箱根芦ノ湖畔で開催された基督教青年会(YMCA)第6回夏期学校において、内村がおこなった講演「後世への最大遺物」を書籍化したものである。私たちは現代をどのように生き、次の世代に何を遺すべきなのか。頼山陽の詩「天地始終無く 人生生死有り」を引きながら、限られた人生の中で志すべき道を語る。
「この美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河に一つの何かを遺していきたい。何も遺さずには死んでしまいたくない。その証としてこの世に記念物(Memento)を置いて往きたい。」
具体的には何を遺せばいいのか。一番良いのは社会のために使える「金」を遺すこと。しかし「金」を貯められるのは一種の天才(Genius)であって誰でも出来ることではない。では他の人は?社会に役立つ「事業」を遺せばいい。安治川を開削した河村瑞賢やアフリカで公共工事をおこなったリビングストンのように世の中が助かる「事業」を遺すのだ。
「金」も「事業」も出来ない人はどうする。「思想」ならば遺せるはずである。若い人に自身の志を注いでいくのだ。フランス革命のきっかけとなった『人間悟性論』を著したジョン・ロックや王政復古の志を『日本外史』に遺した頼山陽のように「著述」か「教鞭」によって自身の思想を遺していくのだ。
だが「金」も遺すことができず、「事業」も遺すことができない、文学や教師となって「思想」を遺していくことの出来ない人もいるだろう。そんな人はどうすればいいのか。誰にでも出来る最大遺物とは何か。それは「勇ましい高尚なる生涯」を送ることである。世は悪魔ではなく神が支配していると信じ、失望ではなく希望の世であり、悲嘆ではなく歓喜の世であると考える。そのことを実行して生涯を送り、世を去ること。それこそが後世に残す最大の遺物である。そう内村は訴えたのである。
講演当時の内村は弱冠33才。全国的論争にまで発展した例の不敬事件で第一高等中学校の教職を追われ、失意と窮乏の真っ直中にいた頃だ。これまでの人生もキリスト教入信が時に世間の批判を浴び、5年に及ぶアメリカ留学では良くも悪くも西洋文化の実体に挫折し、不敬事件で苦悩した妻は病死と苦労の連続だった。
しかし約一時間に渡るこの講演からそのような艱難は微塵も感じられない。時にはユーモアを交え、生き方の要諦を会場に向かって穏やかに語る様子は、むしろ自身の人生も順風満帆、前途洋々の感すらある。ここに内村鑑三の決して怯むことのない強靱な精神があるのだと思う。多くの辛苦を乗り越えてきた経験、東西の両哲学、宗教から得た教養とそれを礎にした確固たる思想を見ることが出来る。
若い時の経験は何物にも代え難い。それが苦労と挫折の結果、得たものであればあるほど、自分自身の精神となり血となり肉となって、人間は飛躍的に成長をしていく。「他の人の行くことを嫌うところへ行け 他の人の嫌がることをなせ」と言った内村の友人メリー・ライオン女史の言葉が耳に残る。自分の立場が少数であることを喜ぶようでなけれなならない。内村が後世に遺したこの尊き思想は今も私たちの社会に生き続けているのだ。
※併録の『デンマルク国の話』は、1911年(明治44年)に内村の自宅で毎週開催されていた研究会での話を収める。人口は日本の十分の一、面積は九州程度、過去にドイツ、オーストリアとの戦争で敗れた歴史を持つヨーロッパ北部の小国デンマークが、実は現在では日本以上に豊かな国であること、その理由の一つが敗戦後にダルガスという一人のリーダーが荒れ地におこなった植樹で国が豊かな田園に変わったことが語られている。国全体で復活に取り組んで成功した「信仰の実力」を説く。