『日蓮』 (山岡荘八歴史文庫)平安時代末期から鎌倉時代にかけては多くの新しい仏教宗派が誕生している。日蓮の日蓮宗や法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などである。これら新仏教の特徴は、旧来の天台宗や真言宗、南都六宗と異なり、いずれも市井の武士や農民と直接向き合いながら布教したこと、出家や学問などの苦行が不要で信仰のみを問うたことなどが挙げられる。

時代の空気と合致していた。終わりの見えない戦さや度重なる地震、飢饉、大火、伝染病が吹き荒れる中、今日を生きるのに必死であった民衆にとって頼れるものは、私利が横行闊歩していた政治ではなく、穏やかに明日の人生を包んでくれる宗教だった。人々に寄り添いながら新しい仏教は急速に広がっていくのである。

これら穏やかな宗教家の中でひときわ異彩を放つのが日蓮だろう。他宗教や政治を厳しく批判し法華経を説くその鋭利な姿勢は凄まじかった。日蓮の思想はどうやって生み出されたものなのか、世の中にいったい何を遺したのか。本書は、『徳川家康』や『伊達政宗』などで数々の歴史的英雄を取り上げてきた山岡荘八が、日蓮の幼少期から「立正安国論」執筆の時代までをダイナミックに感動的に描く。1952年(昭和27年)の作品である。

日蓮は1222年に千葉県小湊町で漁師の子として生まれた。幼少時の名を善日丸と言い、非常に素直で聡明な少年だったらしい。12才の時に「人がなぜ不幸せになっていくのか知りたい」と房総一の名刹清澄寺へ入門し、一心勉学に励む。しかし殺生、偸盗が蔓延る末法の世に嘆き、「人はなぜ破戒に覆われているのか」「八宗十宗は一つになって浄土の将来に尽くすべきなのに、なぜ派閥を作って争っているのか、いっこうに極楽浄土に近づけないではないか」と、山を下って真の仏法を求める旅を決意をする。17才の時だった。

幕府のあった鎌倉、仏教界頂点の天台宗比叡山、園城寺、京都では曹洞宗の禅や臨済宗、南都では法相宗の薬師寺、空海の真言宗高野山、さらには孔子孟子まで全ての書を読み尽くし、真理の教えを追求したが、納得のいくものはなかった。結果的に日蓮は確信する。釈尊の言った「末法の世にこそ「法華経」を信じよ」こそ真理であり、「我が身の不幸から衆生済度の実践」が進むべき道であることを。この果敢に攻め入るアグレッシブな性質は保守的な他の宗教人には見られない。後年の日蓮の言動を理解する上で極めて重要な点である。

1253年(建長5年)、故郷清澄山ではじめて「南無妙法蓮華経」を唱えて、他の宗派を烈しく糾弾、法華経の絶対性を主張する。しかし攻撃された側は怒り心頭で、他の仏教や領家を敵に回してしまった。「他宗の攻撃は、ただ憎んでの攻撃ではない。仏法を一つの正法にせんがための涙をのんでの鞭である」と改める気もない。

故郷にいられなくなった日蓮は鎌倉に出て辻説法を始める。石を投げられたり罵声を浴びたりしても屈せず6年間毎日続けた。そのうち少しずつ信者が増えて、庵のある松葉ヶ谷は賑やかになってきた。1260年ついに行動に移す。時の最高権力者である北条時頼に天変地妖、飢饉疫癘の世に対する救世の方策と現在政治の否定、諸宗攻撃を綴った「立正安国論」を提出したのである。一切の他宗を退け、「正を立て国を案ずる」策を講じよ、このままでは魔、鬼、災、難が立て続けに起こるだろうと、半ば脅迫めいた提言をするのだ。一歩間違えればその場で慚死ではないか。誰であろうと自身が信ずる真理を懇々と説く。日蓮の行動を覆っていた思想である。

本書はなぜかここで終わるのだが、その後も艱難辛苦は続いた。提言が幕府の怒りを買い、伊豆へ流された。3年後に戻ったかとおもえば、また政権に向かって改革を説く。相手が理解するまで何度でも直訴するつもりなのだ。今度は当時の最重要犯罪人が送られる厳寒の佐渡に流された。その年の10月蒙古軍来襲し、国中が大混乱に陥った。命を賭けた予言が当たったのだ。政府は日蓮を鎌倉へ戻す許可を出す。そして存在を認めた。日蓮の精神が勝った瞬間だった。

晩年は山梨県身延山で穏やかな日々を送った。1282(弘安5)年9月、武蔵野国池上で61才の生涯を終える。日蓮の長い戦いは幕を閉じた。

日蓮は何の後ろ立てもなく全くの一人で始めた。狂気に近い不屈の精神だけが支えだった。宗教家としてももちろん一流であったが、政治家、教育家としての素養も持ち合わせていたと思う。法然親鸞が個人個人の浄土を説いたのに対し、日蓮の教えには「現在の世を正しく生きよう。そうすれば平和な世の中になって、皆が幸せになる」という国づくりのメッセージも多分に込められていた。庶民が政治の事に口を出すなど考えられない鎌倉時代だからこそ日蓮の行動は光り輝いているのだ。

内村鑑三が自著「代表的日本人」の中で日蓮を全世界に紹介していたことを思い出す。「日本人の中で日蓮ほどの独立人を考えることはできません。その創造性と独立心によって、仏教を日本の宗教にしたのであります」「受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でした」「彼は自分自身の意志を有していたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかしそういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです」。最高の賛辞である。