『小説神髄』 (岩波文庫) 坪内 逍遥 1885年(明治18年)
今からわずか150年前の1867年、300年近く続いた徳川幕府が崩壊し、一国の政治、経済、外交などが全て刷新される事態が起きた。明治維新である。鎖国制度によって独自性を保っていた日本は、西洋列強各国との交流という大海の荒波に放り出され、良くも悪くも近代国家の道を歩み始めることとなる。それは文学の世界でも同様で、当時進んでいた西洋の思想や文化を積極的に取り入れようとする動きが活発化し、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や『西洋事情』、中江兆民の『民約訳解』などの思想書、翻訳書が登場する。
1885年(明治18年)、東京大学文学部を出たばかりで20代の坪内逍遥は、これまで日本では馴染みの薄かった西洋で言うところのノベル Novel(小説)について論じた『小説神髄』を松月堂から刊行する。江戸時代から親しまれていた御伽草紙、草双紙や滑稽本などのある種、荒唐無稽とも言える戯作から脱皮し、現実社会の人間の心情を正確に映し出した文学への転換を促したもので、この評論は文壇に大きなインパクトを与えた。以降、日本文学の流れは大きく変わる事になる。『小説神髄』によって日本の近代文学の幕が開けたと言われる所以である。
『小説神髄』は上巻下巻から成る。上巻では有形と無形の美術を述べた「小説総論」から始まり、西洋東洋の名編を紹介する「小説の変遷」、さらに本書の主要部である「小説の主眼」「小説の種類」、ノベルのメリットを説いた「小説の裨益」が収められており、下巻では「文体論」「小説脚色の法則」、時代小説と歴史の相違を述べた「時代小説の脚色」、「主人公の設置」までと、実に詳細かつ濃密な構成である。またそのほかに関連の深いものとして『小説文体』『慨世士伝はしがき』『小説神髄拾遺』『小説を論じて書生形気の主意に及ぶ』などの五編も収録されている。
逍遙はなぜこのような評論を書くに至ったのだろうか。そのためには当時の文学に目を向けねばならない。江戸末期から明治初期頃にかけての文学界は、古くは井原西鶴や八文字其笑、そして式亭三馬、為永春水、曲亭馬琴ら興隆を誇った戯作者に肖れとばかり、「陳腐(ふるめか)しき小説をば翻案(やきなお)した」だけの中身が無い「拙劣なる」小説が巷に溢れかえっていた。著者に言わせれば「殺伐残酷」「猥雑猥褻」とまるで現世のワイドショーのようであり、十返舎一九の「膝栗毛」ですら「読むに堪えない」と斬り落とされている。それらの低俗な文学に対して逍遙は我慢ならなかった。「作者の見識なき」「世論の奴隷」「流行の犬」と厳しく批判し、「作者の蒙を啓きて、我が小説の改良進歩を企図て」「欧土の小説を凌駕し、絵画、音楽、詩歌と共に美術の壇頭に煥然たる我が物語を見まくほりす」と、今後は「人間の心情」を主とする精度の高い創作を呼びかけたのである。
最も有名なのは第3章「小説の主眼」の「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。」の一文だろう。本書の中枢部分でもある。人間という動物は表に表れる行動と内に秘めた思想は異なるものであり、人間の内面に垣間見える動きの描写こそが小説家の務めであるといい、またそれらは決して完全無欠、理路整然としている必要もなく、名画のように多少鼻がずれていたり、唇が曲がっていたりしていた方がいい、この世に確かに存在するものを描いてこそ真の芸術であり、文化であると説いている。
このように舌鋒鋭い逍遙だが無論、無闇と戯作者を批判している訳ではない。本書には日本古来の『源氏』『平家』『伊勢』など平安時代のものから始まって、昨今の戯作や歌舞伎、浄瑠璃は勿論のこと、ギリシャ詩、西遊記、イソップ物語、『論語』『孟子』などの「四書五経」、近代英国のディケンス、エリオット、モーレイなどなどありとあらゆる書物が事例として登場する。逍遙の読書量は相当なものだ。古今東西の良書の中で育ち、古典をひたすら愛し、自身の血となり肉となっている。だからこそ本書の論評は大きな説得力を持っているのだ。逍遙は先人の文学に敬意を払いながらも、自分たちの新しい文学、近代的な文学を切り開こうとしたのである。
曲亭馬琴らの勧善懲悪に代表される儒学、朱子学は、江戸幕府の封建社会維持を目的に教育政策の一環として取り入れられた歴史を持つ。いわばお上からのお仕着せ政策であったとも言える。一方、維新後の近代化とはすなわち個と公の対等な関係を意味する。これまでの幕府から言われた事だけをやれば良かった社会から、自分の足で立って歩く「自立型社会」への転換である。本書において逍遥が何度も西洋文学の摂取を促しているのは単に文学の事だけを指しているのではあるまい。ひとりひとりが自立した新しい社会、国民主権社会の創造を私たちにあらためて問うていると言えよう。