『明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説』 (講談社学術文庫) 福沢 諭吉本書は、福沢諭吉が執筆した3つの評論「明治十年 丁丑公論(ていちゅうこうろん)」「瘠我慢の説(やせがまんのせつ)」「旧藩情(きゅうはんじょう)」を収める。発刊に携わった石河幹明によると「丁丑公論は西南戦争の鎮定後、直ちに筆を執って著述せられたるものの、当時世間に憚るところあるを以て人に示さず、爾来20余年の久しき、先生も自らこの述あるを忘却せられたるがごとし」で、他の2編もようやく明治34年に日の目をみている。

丁丑の年の1877年(明治10年)、日本近代史上最も大きな内戦となった西南戦争が起きた。征韓論を巡って新政府と対立し下野した西郷隆盛は、故郷薩摩で桐野利秋らとともに武装蜂起する。だが総力を挙げた政府軍の侵攻に薩摩軍は敗れ、西郷は城山で同胞とともに城山で自刃をした。

この戦争が世に与えた衝撃は大きかった。これまで新政府の中枢にいた薩摩による反乱だったこと、しかも首魁が人望の厚い西郷だったからなおさらだ。無念の思いは福沢諭吉も同様だったのだろう。政府やメディアが西郷批判を強める中、反論の立場をとり、西郷隆盛弁護のために本編「明治十年 丁丑公論」を書き起こしたのである。

権力を持った人間は専制になりやすい。政府の専制を放頓すれば際限なく、必ず悪い方へ向かう。これを防ぐのは「抵抗の精神」しかないと福沢は「自主独立」の重要性を説いた上で、西郷の挙動についても「日本の全国を殲滅するに非ず、また政府全体の転覆するにも非ず、わずかに政府中の一小部分を犯すのみ」と擁護する。むしろ薩兵の帰郷を許し、兵に給与を渡し、武器製造をだまって見て、間接的に暴発を誘導した政府にこそ原因があると批判する。

「西郷は天下の人物なり」。福沢は幕末から王制維新に至る過程で西郷が成し遂げた実績を讃え、如何に日本が狭いといっても、国法が厳しいといっても、人物一人を受け入れる度量もないのだろうか、他日、再び西郷を登用する機会もあるだろうにと早すぎるその死を惜しんだ。ペンを通して生涯政府批判を続けた福沢と武を使って抵抗を試みた西郷。互いに面識は無かったらしい。しかし相通ずる部分を感じていたのだろう。

「立国は私にあり 公にあらざるなり」の有名な一文で始まる「瘠我慢の説」は、明治24年に執筆したものを「丁丑」同様に石河幹明が明治34年1月1日に時事新報紙上で発表した。本編では幕府側にいた勝安房(海舟)と榎本武揚を槍玉に挙げ、崩壊前と後に取った行動に「瘠我慢の精神」が無いと痛烈に批判している。

福沢のいう「瘠我慢の精神」とは、語弊を恐れずにわかりやすく言うと、日本固有の武士の精神、大和魂のことを指す。小が大に、弱が強に立ち向かい、万が一敗戦濃厚になっても、決して降伏、逃走、講和をせずに最後の最後まで戦い抜こうとする抵抗精神、これが立国の要となる「瘠我慢の精神」であるという。「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり」「国家百年の謀において士風消長の為に軽々看過すべかざる」なのだ。

その考えでいくと、幕府に勝算無きと見るや、速やかに講和を結び、300年の政を解散させただけならまだしも、維新後にも政府高官に就いた勝海舟や敗戦濃厚な幕府側の将として軍艦率いて函館で奮戦するも、叶わずに降参、やはりその後に新政府で大臣を歴任した榎本武揚などは福沢には許せなかったに違いない。「人生の航路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとする時は富貴を捨てざるべからず」と行動の矛盾に不満を募らせた。

ただこれには異論反論が少なくないだろう。自決や戦死だけが正義ではないし、自身の能力を新しい環境で生かしていくのも人間の立派な義務であるはず。実際、勝が幕末に取った無血の維新は後世での評価も高い。発表後に福沢も考えるところがあったのだろうか、追って3週間後に発表された論評では批判のトーンを弱めている。

福沢は論争の挑み方も道理にかなっていて気持ち良い。本編も発表前にあらかじめ勝と榎本に原稿を見せ、決して個人攻撃ではないこと、両氏が取った行動について世に問いたいこと、事実間違いや意見があれば言ってほしい、と投げかけ、しかも両名から承諾の返信書簡も受け取っている。文筆一本で闘って来た福沢らしい正々堂々とした手法である。

その他、幕末外交の真相を綴った附記の「対する評論について」では、小栗上野介と仏公使の関係や横須賀製鉄所、下関砲撃事件の補償に群がる英仏のしたたかさが描かれており、資料としても興味深い。もう一編の在りし日の福沢との交流を綴った木村芥舟の「福沢先生を憶う」も涙を誘う。木村はかの咸臨丸で福沢と渡米した木村摂津守である。「旧藩情」は福沢の故郷中津藩の情態を纏めたもの。とは言っても当時の諸藩事情はどこも大同小異。江戸時代の身分制度や教育、風俗などがわかりやすく紹介されている。