夏目漱石の『門』に主人公の野中宗助が、不安な精神の拠りどころを求めて鎌倉の寺で参禅する場面がある。結局、住職から軽くいなされて帰ってくるのだが、実はこれは漱石自身の経験に基づくものらしい。円覚寺で禅を試みたが余りものにならなかった事が後述されている。漱石が当時、精神的に追い込まれていたのは周知の事実であり、その打開策として禅を求めたのだとしたら、その頃持て囃されていた西洋哲学には説明出来ない、東洋的な何かがあると感じていたのかもしれない。
禅はいつ頃からあるのだろうか。日本に初めて禅を持ち込んだのは臨済宗を興した栄西だと言われている。いまから約850年前、鎌倉時代の頃だ。栄西没後に建仁寺を継いだ弟子の明全は、道元らの若者を引き連れ、1223年(貞応二年)に入宋、当時主流となりつつあった禅を景徳寺で学ぶ。しかし明全は突然客死、残された道元は天童如浄の元で1日20時間以上の厳しい禅修行を続け、1227年(安貞元年)に帰国する。日本における新たな禅の胎動であった。
曹洞宗の開祖で、日本の思想の歴史を形づくる哲学者となった道元を紹介した本書は、「古寺巡礼」「風土」などの著書で知られる哲学者の和辻哲郎が、1962年に著した「日本精神史研究」の一編「沙門道元」が底本になっている。和辻は本書を書くにあたって「禅に門外漢の人間が道元を理解できるのか、畢竟高きもの深きものを低くし浅くするのではないか」と躊躇しながらも、絶対の真理を体得していない自分がその探究の記録、受けた感動を書くことは自然なことであると確信し、道元の思想をまとめ上げた。
全部で9章からなる本書は、著者の主旨を述べた序文から始まり、禅修行の方法とその目的、同時代の浄土宗親鸞との違い、道徳、社会、芸術問題、そして曹洞宗の真理について、「正法眼蔵随聞記」を引用しながら、道元の人格、思想を独自の解釈で考察していく。「哲学の叙述を企てつつ途中で挫折した」という曰くがあったものの、道元を日本に知らしめるきっかけとなった作品であり、道元の思想を知る上ではお薦めの入門書になっている。
道元の言うべきことは「財欲を捨てよ、異色に心を煩わすなかれ」の一言につきる。「学道の人は先づ須く貧なるべし。財おほければ必ずその志を失ふ」と、俗世を捨てて出家せよ、座禅修行に励め、全てを放擲せよという。衣食住の欲からの脱離を真理の道への必須条件としているのだ。このことは華美装飾な像や建造物、文筆詩歌などの芸術的労作に流れていた当時の仏教の否定につながる。道元は「仏法興隆にあらざるなり。たとひ草庵樹下にてもあれ、一と時の座禅をも行ぜんこそ、真の仏法興隆である」と新たな思想を説いた。
修行の方法も厳格に定められている。あらゆる我欲を捨て、仏祖の言語行履に随う「仏祖盲従」、そしてその中核として自力証入を意味する「専心打座」である。念仏宗など他力の信仰が、自己の無を悟るのにたいし、道元の道は自ら我執を捨て、真理の追究に自ら身を投じることを求める。「他力と自力」。著者はここに著しい違いがあると言う。前者は解脱を死後に置き、後者はこの生において実現使用とする。模倣には導師なくして成し得ることは出来ない。名の唱えではなく人格の継承が必要である。修行者は素材、導師は彫刻家なのである。前者は自己の救済に重心を置き、後者は仏の真理の顕現に重心を置く。真理の前に自己は無である。真理のための修行なのである。
宗教界の英傑親鸞と道元の信仰の違いも面白い。例えば人間の持つ「悪」について親鸞はいかなるものでも許し、ただ専心に仏を念じよと説いたが、一方の道元は悪か善かは大きな問題ではなく、仏法のために、仏意を自己に中に顕現せよと説く。よって悪か善か、罪人が救われたか否かはさほど関係ない。行者自身の真理追究が主だからである。この違いについて和辻は「両社は根本において一である。が、それにもかかわらず異なった特殊性をもって現れる」とその特殊性に注目する。
真理顕現には煩悩の克服が必須条件である。「戒律による力強い自己鍛錬」だ。ただしそれを全ての人に求めている訳ではない。出家した仏法の模倣者のみに求めた。だから浄土宗などの念仏宗と異なり、もともとの対象者、信徒数がそれ程多くない。この事について「信徒数が多い方がいいのでは」と弟子が問うた際、道元は「勢力や建造を以てではなく、穏やかに座禅をこそが興隆である」「衆徒の少ないことを憂う無かれ」と答えたという。彼は「帝者に親近せず、丞相と親厚ならざりし」を信条とした宋の天童如浄に影響を受けた弟子である。「世間的に仏法を広めることをもって仏法興隆とは解しなかった」のである。
時の幕府の信任が厚かったことも禅宗の大きな特徴だろう。これは第5代執権北条時頼の存在が大きい。時頼は中国に僧を派遣して瞑想的な禅を導入させ、京都、鎌倉、越前に寺院を建立、定着を図った。迫害され世を追われた法然、親鸞、日蓮とは大きな違いである。その理由について和辻は、道元が持っていた「儒教への信頼」にあるのではないかと推測する。僧の徳と俗の徳を明確に分ける儒教的な精神が武士の思想に大きな影響を与えたに違いないのであろう。
信仰における人間の見解はそれぞれ異なって当然であり、統一しようとするには議論が必要になる。つまり葛藤である。しかし道元は「この葛藤こそまさに仏法を真に伝えるものだ」と主張した。どういう意味か。一般に(禅宗含めて)宗教とは人間の葛藤を絶とうとするものであるが、道元は「葛藤をもて葛藤に嗣続することしらんや」とした。仏法とは矛盾対立を通じて展開する思想の流れであり、明確な論理を持つ法の中にこそ「真理」の会得がある。しかもその法は人から人へ伝えられるものであり、礼拝することで人格的価値の段階があがっていく。つまり「人間の努力に十分な意義を与え、絶えざる精進が人生の意義になる」。この一文に宗教家としてではない哲学者の道元を見ることが出来るのである。