今から1,500年以上も前、聖徳太子の時代に伝来したといわれる仏教。文化庁編集の「宗教年鑑」(平成22年度版)に拠ると、我が国の仏教徒数はおおよそ9,000万人で、信者数でいえば浄土真宗が約1,200万人、次が浄土宗の約600万人で、以下真言宗、日蓮宗がそれぞれ約400万人、曹洞宗が約150万人となっている。9,000万人というと日本の人口のほとんどになるのだが、実は神道系の信者数も約1億人と仏教のそれよりも多く、両方を足すとなぜか人口のほぼ倍の2億人にも上る。つまり国民の大半が2つの宗教を信仰しているという、諸外国からみればある意味、少々希有な国家といえよう。
日本仏教で最も信教徒数の多い浄土真宗の宗祖親鸞。彼の生涯は如何なるものだったのだろう。親鸞は由緒ある家系の日野有範の長男として1173年、京都の日野(現在の伏見区)で生まれた。9才で出家し比叡山で修行をした後、浄土宗の法然と出会い、弟子入りをする。以降、法然の中心的な門弟として生涯をともに歩むのだが、道のりは困難の連続であった。後鳥羽上皇の怒りを買った「承元の法難」で、法然は四国へ、親鸞も新潟へ流されてしまう。5年後に赦免の宣旨が降りるが、故郷へは戻らず、新潟、長野、茨城に赴き、約20年に渡って布教活動を続ける。ようやく京へ戻った時には60才を過ぎていた。浄土真宗として確立されたのは、親鸞の亡き後、弟子達の手によってであった。
吉川英治は人生で最初に書いた小説が親鸞だったらしい。残念ながらその本原稿は関東大震災で社屋もろとも焼失してしまい、世に出すことが出来なくなったのだが、やはり希代の宗教者には格別な想いがあったのだろう、40才を過ぎて改めて親鸞の生涯に取り組み、3年近くにも及ぶ新聞連載で第二作となる本書『親鸞』を完成させた。吉川の描く親鸞は、次々に降りかかる困難にも明るく前向きに突き進み、「自力を否定し、阿弥陀如来の本願力を信じることで救われる」と一心に説く。普段私たちが普段思い浮かべる険しい表情の大男ではないのだ。作品の脇を固める延暦寺座主の慈円、月輪殿こと関白の九条兼実、幼少の頃からの天敵播磨房弁円や盗賊の天城四郎などの男たちも魅力的で、いっそう力感あふれるものに仕上がっている。このあたりは歴史の科学的分解と小説的調整の創意に富んだ吉川ならではの醍醐味だろう。
吉川は親鸞について「実に宗教の世界ばかりでなく、思想の上にも、庶民生活にも劃期的な変革をよび起こした先駆者の炬火そのものだった」「久しい間の貴族宗教の弊や門閥教団の害を打ちやぶった」「平民主義新宗教の宣布者であり、日本では前後に見ない民主的な教義を引っさげて出た革新児であった」と述べる。自身の家が真宗だったかどうかはわからない。しかし吉川ほど歴史の大家にしてもこの魅力ということだろう。友人の菊池寛も然り。「親鸞の信仰は時代を抜きにしては語れない。この時代の中に親鸞を捉えるという大手腕は、この著者をおいては考えられない」と絶賛する。
親鸞の強さを述べよと問われれば、既成概念に囚われない闊達さと信念の不変さにあると思う。例えば師の法然をも驚かせた時の関白九条兼実の娘との結婚の件。妻帯の仏教者などありえない時代に周囲に何と言われようとも自身の考えを貫き通す。どこか人間くさく高尚過ぎないのが人を惹きつける。また処分が解けた後も、安定した生活が保証されている京都には戻らず、貧困に喘いでいた地方の農村に腰を据え、庶民一人一人を救おうとした。最後まで在野の人だった。
吉川英治は、近代文学においてほとんどの作家が自身に纏わる実在的なものに取り組んだのに対して、歴史という大きなモチーフに立ち向かい、武蔵、平家、三国志など本格的な長編小説を私たちに提供した。その足跡は国民的大衆文学と呼ばれ、老若男女問わず誰もがワクワクしながら次号を楽しみに待っていた。偶然だが今年は著者の没後50年にあたる。今もなお書店に並ぶ全80巻にも及ぶ「吉川英治歴史時代文庫」を見ると、彼の軌跡の偉大さを感じずにいられない。