津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2012年11月

『親鸞』(全3巻) (吉川英治歴史時代文庫・講談社)

今から1,500年以上も前、聖徳太子の時代に伝来したといわれる仏教。文化庁編集の「宗教年鑑」(平成22年度版)に拠ると、我が国の仏教徒数はおおよそ9,000万人で、信者数でいえば浄土真宗が約1,200万人、次が浄土宗の約600万人で、以下真言宗、日蓮宗がそれぞれ約400万人、曹洞宗が約150万人となっている。9,000万人というと日本の人口のほとんどになるのだが、実は神道系の信者数も約1億人と仏教のそれよりも多く、両方を足すとなぜか人口のほぼ倍の2億人にも上る。つまり国民の大半が2つの宗教を信仰しているという、諸外国からみればある意味、少々希有な国家といえよう。

日本仏教で最も信教徒数の多い浄土真宗の宗祖親鸞。彼の生涯は如何なるものだったのだろう。親鸞は由緒ある家系の日野有範の長男として1173年、京都の日野(現在の伏見区)で生まれた。9才で出家し比叡山で修行をした後、浄土宗の法然と出会い、弟子入りをする。以降、法然の中心的な門弟として生涯をともに歩むのだが、道のりは困難の連続であった。後鳥羽上皇の怒りを買った「承元の法難」で、法然は四国へ、親鸞も新潟へ流されてしまう。5年後に赦免の宣旨が降りるが、故郷へは戻らず、新潟、長野、茨城に赴き、約20年に渡って布教活動を続ける。ようやく京へ戻った時には60才を過ぎていた。浄土真宗として確立されたのは、親鸞の亡き後、弟子達の手によってであった。

吉川英治は人生で最初に書いた小説が親鸞だったらしい。残念ながらその本原稿は関東大震災で社屋もろとも焼失してしまい、世に出すことが出来なくなったのだが、やはり希代の宗教者には格別な想いがあったのだろう、40才を過ぎて改めて親鸞の生涯に取り組み、3年近くにも及ぶ新聞連載で第二作となる本書『親鸞』を完成させた。吉川の描く親鸞は、次々に降りかかる困難にも明るく前向きに突き進み、「自力を否定し、阿弥陀如来の本願力を信じることで救われる」と一心に説く。普段私たちが普段思い浮かべる険しい表情の大男ではないのだ。作品の脇を固める延暦寺座主の慈円、月輪殿こと関白の九条兼実、幼少の頃からの天敵播磨房弁円や盗賊の天城四郎などの男たちも魅力的で、いっそう力感あふれるものに仕上がっている。このあたりは歴史の科学的分解と小説的調整の創意に富んだ吉川ならではの醍醐味だろう。

吉川は親鸞について「実に宗教の世界ばかりでなく、思想の上にも、庶民生活にも劃期的な変革をよび起こした先駆者の炬火そのものだった」「久しい間の貴族宗教の弊や門閥教団の害を打ちやぶった」「平民主義新宗教の宣布者であり、日本では前後に見ない民主的な教義を引っさげて出た革新児であった」と述べる。自身の家が真宗だったかどうかはわからない。しかし吉川ほど歴史の大家にしてもこの魅力ということだろう。友人の菊池寛も然り。「親鸞の信仰は時代を抜きにしては語れない。この時代の中に親鸞を捉えるという大手腕は、この著者をおいては考えられない」と絶賛する。

親鸞の強さを述べよと問われれば、既成概念に囚われない闊達さと信念の不変さにあると思う。例えば師の法然をも驚かせた時の関白九条兼実の娘との結婚の件。妻帯の仏教者などありえない時代に周囲に何と言われようとも自身の考えを貫き通す。どこか人間くさく高尚過ぎないのが人を惹きつける。また処分が解けた後も、安定した生活が保証されている京都には戻らず、貧困に喘いでいた地方の農村に腰を据え、庶民一人一人を救おうとした。最後まで在野の人だった。

吉川英治は、近代文学においてほとんどの作家が自身に纏わる実在的なものに取り組んだのに対して、歴史という大きなモチーフに立ち向かい、武蔵、平家、三国志など本格的な長編小説を私たちに提供した。その足跡は国民的大衆文学と呼ばれ、老若男女問わず誰もがワクワクしながら次号を楽しみに待っていた。偶然だが今年は著者の没後50年にあたる。今もなお書店に並ぶ全80巻にも及ぶ「吉川英治歴史時代文庫」を見ると、彼の軌跡の偉大さを感じずにいられない。

『西鶴諸国ばなし』 (小学館ライブラリー) 井原 西鶴、暉峻 康隆先頃亡くなった作家の藤本義一氏は後年、井原西鶴研究に熱心に取り組んでいたことでも知られる。元禄時代に花開いた上方文化の中でも特に代表格であった西鶴と同じ大阪生まれという縁もあるのだろう。『西鶴名作集』や『元禄流行作家―わが西鶴』など数多くの関連本を残している。上方商人の人情味あふれる気質を好んで描いた井原西鶴とは大阪の人にとって同じアイデンティティーを持った親しみの存在なのかもしれない。

西鶴が生きた元禄期に商業の中心地であった大坂には全国から物資やお金はもちろん様々な情報が集まっていた。とは言っても現代と違って交通手段の発達していない時代のことである。まっとうな商いの話以外にも、うさんくさい儲け話や投機話、尾ひれはひれが付いた笑い話、さらには俗信迷信の類など玉石混淆の情報が飛び交っていたと想像される。

西鶴はそこに面白味を発見したのだろう。『好色一代男』『諸艶大鑑』に続く第三作として、貞享2年(1685年)44才の時に、諸国の珍談、奇談、怪談を5冊35章にまとめた『西鶴諸国ばなし』を大坂心斎橋の版元池田屋から刊行する。本書はその古典を元早稲田大学名誉教授で西鶴研究の第一人者として名高い暉峻康隆(てるおかやすたか)(1908年~2001年)が現代語に読みやすく訳したものだ。ちなみに副題の『近年諸国咄 大下馬(おおげば)』とは江戸城の大手門外にあった下馬所(馬を降りて登城する場所)のことで、諸国の大名旗本が集って話をする所という意味らしい。

『西鶴諸国ばなし』は話も無論、面白いのだがまずタイトルに興味をそそられる。咄の出所は、巻一の一「公事は破らずに勝つ」の奈良から始まって、京都、江戸、紀州、伏見、箱根、そして最後に巻五の七「銀が落としてある」の江戸まで実に全国津々浦々を駆けめぐる。殿様や武士、町人、盗賊や守銭奴の話、狐に化かされる話や妖怪の話まで想像されるものが全て登場といった感じなのだ。西鶴自身が描いた挿絵も当時の人々の滑稽さが目に浮かぶようで、見ているだけで楽しい。

東京品川を舞台にした「大晦日は合わぬ算用」などは傑作だ。ある屋敷でおこなわれた宴会中に紛失した大事なお金をめぐって侃々諤々するものの、亭主の工夫と参加者の洒落た振る舞いによって当意即妙、円満に解決するという話なのだが、昔の12月とは1年間売り掛けで買っていた米や塩砂糖、油などの代金を一括で支払わなければならない、庶民に取っては頭の痛い時期だった。反対に商人は命がけの集金月である。だからこの時期になると金のある者、無い者、逃亡する者、泣き落としにかかる者まで悲喜こもごもなのだ。そんな当時の世相を西鶴はユーモラスにそして最後にはホロリとさせる様にうまく描いている。

暉峻氏は本書の魅力として「西鶴のユニークな人間観によって、超自然の怪奇談を扱いながらも、その底にある人間性のおかしさや怪しさを秘めたフレッシュさ」を挙げている。確かに怒ったり、泣いたり、笑ったりと人間ほど不思議でよくわからない存在はあるまい。西鶴作品にはわがままな利己的男や無責任男、嫉妬深い女、ヒステリック女がよく登場する。しかし一人ひとりはどこか愛嬌があってなぜか憎めない。だからだろう。読み終えると「人生は何だかんだいってもやっぱり面白い」と晴れ晴れとした気持ちになるのだ。

『虞美人草』 (新潮文庫) 夏目 漱石1907年(明治40年)朝日新聞に連載開始

夏目漱石が作家として一本立ちしたのはそれほど早くなかった。同い年の尾崎紅葉が29才の時に読売新聞で連載した『金色夜叉』で世を席巻していた頃、漱石はまだ地方の一介の高校教師であり、国家派遣で英国留学を目前に控えていた位だった。出世作となった『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を執筆した時でさえ実はまだ大学に勤めていたのである。ガツガツしていない余裕派的な要素はこういった部分にも見られる。

転機は40才の時に訪れる。読売における紅葉のような自社専属の看板作家を探していた朝日新聞が、押しも押されもせぬ人気作家となっていた漱石に白羽の矢を立て、職業作家としての生涯がスタートした。解説にある小宮豊隆によれば漱石の入社は「当時の一大センセーションであった」らしい。いくらヒット作を連発していたとはいえ、平成の現代とは世相が全く異なる。明治維新以降、絶対的な身分であった官職の中でも権威ある大学教授の職を捨て、作家として新聞社で働くなどは考えられない事だった。

朝日新聞での記念すべき第一作目に何を書くか。漱石の岐路である。これまでの「本業の合間に気ままに書いていた」ものではなく、紙面の向こうにいる大勢の読者を喜ばせるような作品にしなければならない。恐らく担当者と侃々諤々があったと想像される。決定した題材は、決して裕福ではないものの頭脳優秀な学生が、高貴な女性を巻き込み、階層社会の中で成り上がろうと藻掻く、というまるで紅葉の『金色夜叉』のような内容だった。ずいぶん世俗的な感じではないか。漱石がこの材に納得していたかどうかはわからない。とにかく世間が注視する中、『虞美人草』は1907年(明治40年)に連載が始まった。ちなみに虞美人草とは「ヒナゲシ」の別名で、『史記』に出てくる項羽の恋人で、戦に敗れた項羽の後を追って自決した女性と言われる。

貧しい家庭に生まれながらも、大学卒業時に恩賜の銀時計をもらうほどの秀才だった小野は、国家試験を目指して勉強中で、順調にいけば行く末は高級官僚だ。だがそれにはお金が必要で、打算の気持ちから、資産持ちの同級生甲野の妹の藤尾と交際を始めていた。藤尾は天性の美貌の持ち主だが性格は我が儘で烈しくクレオパトラとも評されている。見栄っ張りの藤尾の母も何とか娘を将来の官僚候補に嫁がせようと画策する。その一方で小野は義理に頭を痛めていた。大学時代の恩師からも純朴な娘の小夜子との縁組みを薦められていたのだ。事態は甲野兄の友人の宗近とその妹の糸子、さらに父をも巻き込んでややこしい方向へ進んでいく。美貌と金を取るか、恩義と性格を取るか。小野の優柔不断でどっちつかずな態度が悲劇を生み出すのだった。

本書で漱石は、これまでの『坊っちゃん』『草枕』に見られる穏やかでほろ苦い青春像から一転して、まるで昼ドラのような感情が縺れ合う愛憎劇を描いている。職業作家として新しい分野へのチャレンジといえよう。とは言ってもそこは漱石のこと。現在の内容が希薄なドラマのように、単に人を傷つける人間しか出てこず、不快感しか残さないものとはまったく異なる。

作品の舞台は日清・日露戦争の勝利で日本中が沸き立っていた明治中期。近代化が進み新しい文明が次々に入って来ていた時代だ。小野や藤尾も文明の象徴である博覧会を見学し、燦めくイルミネーションに心を時めかせている。誰もが背伸びをして貪欲に西洋文化を吸収しようとしていた時代なのだ。

漱石はそんな軽薄な世の中に警鐘を鳴らす。精神がおかしくなった藤尾の母に対して「神経衰弱は文明の流行病である」と突っ込み、宗近の父さんには「文明の圧迫が烈しいから上部を綺麗にしないと社会に住めなくなる」「その代わり生存競争も烈しくなるから、内部は益不作法になる」「これからの人間は八つ裂きの刑を受ける様なものだ」「ことに英吉利人は気にくわない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でも我流を通そうとする」「日本がえらくなって英国の方で日本の真似でもする様でなくっちゃ駄目だ」と文句を言わせている。

2年余りの英国ロンドン留学で西洋と東洋文明の相違を痛感し、個人主義と協調主義、実利と徳義の優劣について深い思索を繰り返した漱石。浮かれた今の日本は哀れですらあると感じていた。本書『虞美人草』にはそんな鬱積した感情が此処彼処から滲み出ているのだ。漱石はこの作品を発表後、『三四郎』『それから』『門』を経て、自然界の中で生きる人間の存在意義を問う深遠な後期へと遷移していく。その意味では本書が一つの出発点と言えるだろう。

『方丈記私記』 (ちくま文庫) 堀田 善衛『方丈記私記』 (ちくま文庫) 堀田 善衛 1971年(昭和46年)


1945年(昭和20年)3月、アメリカ軍による爆撃で7万人以上の死者を出し、首都の4割が焼失したといわれる東京大空襲。当時20代だった堀田善衛はその惨憺たる戦災に直面し、学生の頃より親しんでいた鴨長明が経験した苦難に、自分の心情を重ね合わせていた。

甚大な被害をもたらしたこの戦争で、多くの友人知人を亡くした堀田は、「人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物」であると痛感し、昭和の惨状を書き残すことを決意する。800年以上も昔の大乱世時代に書かれた「方丈記」と廃墟となった昭和日本の行く末を記した『方丈記私記』 は、1971年、実に災害後26年を経て発表された。同年、毎日出版文化賞も受賞している。

堀田は3月10日の大震災から約1ヶ月の間、何度も「方丈記」を読み返していた。ただ漫然とではない。「戦禍に遭逢しての我々日本人民の処し方、また処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある」ことを発見し、戦争、火災、地震、飢饉が立て続けに起きた平安災害の描写が「実に凄然とさせられるほど的確であった事」に深く心を打たれていたのである。

さらに著者は長明の新たな面に気付く。「意外に精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマティクなまでの卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものである」と、ジャーナリストとしての才能である。それは「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」に想起されるような世俗を嫌い、人生の無常を謳う叙情的な長明像ではなく、度重なる災害でズタズタに崩壊していく日本を泰然と直視する長明だった。堀田自身が戦災に遭遇して初めて思い知らされた事であった。

後半では長明という人間の本質にも踏み込む。出家してもなお都の政治的動向が気になって、清盛遷都の福原まで出かけたり、貴族の人事ニュースに一喜一憂したり、政治に携われない自分の力の無さ、名残惜しさみたいなものを彼方此方で見せる長明。京に戻れば良いのに戻らない。相当な意地っ張りにも思える。世に言われているような「ああ無常なり」と達観した雰囲気はどこにも無いのだ。妙になま臭く、何とも人間らしい。その両面性が長明の良いところであり、本書において著者が「方丈記」を取り上げた所以なのだろう。

本書で堀田の思想は時空を超え現代と過去を何度も目まぐるしく行き来する。まるで自身の行動や胸中を確かめているようでもある。長明ならこの焼け野原を目の前にしてどう感じるのだろうか、復興に向けてどう行動するのだろうか。戦争によってボロボロになった日本、東京、そして国民の身の振り方を古典に問うているように思えるのだ。なお巻末には1980年に論文誌『國文學』で掲載された著者と五木寛之の対談「方丈記再読」も収める。若かりし頃の五木とすでに大御所だった堀田の「長明談義」が楽しい。

 

『源実朝』 (ちくま文庫) 吉本 隆明『源実朝』 (ちくま文庫) 吉本 隆明

日本において初めて本格的な武家政権を樹立した源家。清和天皇の流れを汲む由緒正しきその家系も、表の華やかさとは裏腹に、常に身内同士による血みどろの争いが絶えなかった。当時は権勢の行く末が全くわからなかった時勢で、北条氏というしたたかな策略家が陰で糸を引いていた面もあるだろう。しかしそれを差し引いても、源家の栄華がわずか3代で朽ちててしまったのは、因果応報、自滅だと思えて仕方ない。

実朝の悲劇はまさに因果を象徴している。源頼朝の御曹司として幼少の頃より将来の統領を約束されていた次男の実朝は、長兄の頼家が殺害された後、わずか12歳で鎌倉幕府第3代征夷大将軍に就く。しかし父の頼家を殺された事に恨みを持っていた息子公暁、つまり兄の子どもによって、28歳の時に鶴岡八幡宮の祝いの場で暗殺されてしまう。報復の連鎖である。思い起こせば義経や義仲も然り。当然の帰結であろう。血筋が絶えた瞬間だった。

本書は、将軍でありながらも鎌倉時代有数の歌人として知られた博学怜悧な実朝の背後に垣間見える独特の詩的思想を、先ごろ亡くなった吉本隆明が同じ詩人の立場として様々な角度から論じている。刊行は1971年、吉本47歳の時である。実朝を取り上げた理由として著者は、当時傾倒していた数少ない2人の作家、太宰治が書いた『右大臣実朝』と小林秀雄が『無常といふ事』の中で書いた「実朝」論をあげ、彼らは実朝自身に興味があったというより、二人の<心の中にある暗さ>、つまり戦争の中で意識した無常感<実朝的なもの>を書きたかっただけなのではないか、と疑問を抱いたからであったと述べている。

凶暴な集団の中でひとり文学的な素養、詩的な心を持っていたと言われる実朝。彼が生まれた頃は鎌倉の勃興期であるが、同時に大量の殺戮がおこなわれていた時期でもあった。実朝は本当に将軍になりたかったのか。殺されることを幼い頃から自覚していたのではないか。吉本は鎌倉初期に書かれた九条兼実の『玉葉』や慈円の『愚管抄』、『吾妻鏡』『北条九代記』を丹念に読み解きながら、実朝の人物像に深く迫っていく。史実と自身の考察を交互に論じていく吉本の手法には説得力がある。

将軍就任後もほとんど北条執政の為すがままだったと言われる実朝が生涯の中で我を通したことが三回だけあった。一つは結婚のこと、二つ目は渡宋の計画、三つ目は晩年に官位の昇進を求めたことである。それはなぜなのか。吉本はその答えを実朝の詩人としての特異な感性、京都に代表される王朝的なものと板東武門に代表される粗野で猛々しい倫理観の中で育まれた「矛盾や嫌悪、迷蒙さ」にひとつの答えを見出している。本書後半の吉本による実朝が残した歌の論評がそれを裏付ける。詩を嗜む人にとっては垂涎であろう。けっして表には見せる事が無かった実朝の本当の心情を歌の中から読み取ることが出来るのである。

 

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