津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2012年08月

『お目出たき人』 (新潮文庫) 武者小路 実篤『お目出たき人』 (新潮文庫) 武者小路 実篤 1910年(明治43年)


以前から武者小路作品に登場する超俗した男が気になっていた。粘り気ある後味とでも言おうか。遠くから見てみたい衝動にかられるのだ。『友情』に登場する脚本家の野島や『真理先生』で重要な役を担う絵描きの馬鹿一。いずれも相手の気持ちや世間の評判には恐ろしく鈍感で、我が信ずる道(といってもこれが少しずれている訳だが)を突き進む。悪くいえば粘着質で妄想癖有りのストーカー的。良くいえば純粋で裏表の無い直情タイプ。よくもこんな変人を細微に書けるものだと思っていたのだが、本書を読んですっかり謎が解けた。この偏奇人は武者小路実篤本人がモデルだったのだ。

『お目出たき人』は実篤が1910年(明治43年)、25歳の時に実体験をもとに書かれた。志賀直哉、有島武郎らと文芸誌『白樺』を創刊した翌年の意気軒高な頃だ。ゆえに実質的なデビュー作と言っていいだろう。本書新潮文庫版には標題作の他に附録として「二人」「無知万歳」「生まれなかったら?」「亡友」「空想」の計6編を収める。含蓄ある表紙の鳳凰?鷲?の絵は有島武郎の実弟で画家の有島壬生馬が描いた。

26歳の「自分」は近所に住む「美しい優しい可憐な」女子学生の鶴に恋をする。しかし話したことはない。一方的な片思いである。想像力が他人の何倍も豊かな主人公はそのうち「鶴と夫婦になりたく思う」ようになり、「鶴程自分の妻に向く人はない」ように考え出す。さらには「自分の妻になることが鶴にとっても幸福」のように思えて来るのである。友人にも相談して、親にも!勝手に報告して、時間があれば鶴を見に学校の近くまで散歩に繰り出す。この辺りから読者も苦笑が始まるに違いない。

彼はついにたまらなくなって鶴の父親に求婚の手紙を出す(笑)。しかし返ってきた答えは当然と言えば当然、「まだ本人は若い。鶴の兄もまだ嫁をもらっていないので」と体よく断られてしまう。ガーンとした彼はその夜、布団の中で涙ぐみ、「自分は五年前から一日も彼女のことを忘れたことがない、本当に苦しいのだ・・」と何度もひとりおいおい泣くのである。この独り相撲っぷり、直情径行っぷり!見事ではないか。そして粘着質タイプの主人公はあきらめずにほとぼりが冷めるまで、鶴が自分に好意を持ってくれるまで、勝手に待つ決心をするのである。


結論は私たちの想像通りである。当然の悲しいジ・エンドを迎えるのだが、読み終わった後になぜであろう、清々しい気持ちにすらなる。それはたぶん主人公の妄想の中に陰湿な部分が皆目見あたらないからだろう。至って前向きで明るく、「馬鹿」の字を頭に付けてもいい位だ。24時間365日しかも5年以上一人の女性を思い続け幸福な時間を過ごした。もっとも鶴は気持ち悪くて堪らなかったかもしれないが。

この底抜けの率直な性格は恐らく実篤の生い立ちに由るところが大だと思われる。公卿の家系である武者小路家の第8男として生まれ、可愛がられて育ったのであろう、学習院初等学科から中等科、高等科にトントン進み、東京帝国大学文科大学哲学科へ入学。端から見れば挫折無しの人生である。ゆえに同人誌白樺を創刊した時にも「お坊ちゃんたちのお遊び」「白樺を逆さによんで-ばからし-」と馬鹿にされていたようだ。

しかし芥川龍之介が実篤のことを「文壇の天窓を開け放ってさわやかな空気を入れたことを愉快に感じる」と評したように、「天衣無縫」と言われたそのおめでたい作風は、本書を始めとして、『友情』『愛と死』『真理先生』と数多くの名作を生み出す。「人柄が飾り気がなく、純真で無邪気なさま、天真爛漫」。その代わりに「飽きっぽく、ときおり口を尖らせて怒る」。何とも愛すべき人である。であるが、もう一度念のために記しておく。一方的に想われた鶴本人は気持ち悪くて堪らなかったかもしれない・・・・・・。

 

『文明論之概略』 (岩波文庫) 福沢 諭吉、 松沢 弘陽『文明論之概略』 (岩波文庫) 福沢 諭吉、 松沢 弘陽 1875年(明治8年)出版


福沢諭吉が初めて海外に渡航したのは1860年(万延元年)、25歳の時である。日米修好通商条約批准書のために万延元年遣米使節団として勝海舟や中濱萬次郎らと咸臨丸でアメリカへ渡っている。その2年後の1862年(文久2年)には、文久遣欧使節団の通訳としてフランス、イギリス、オランダなどヨーロッパ各国を半年かけて周遊し、32歳の時には軍艦受取委員随員として再び渡米している。当時の日本は鎖国中で大半の交易を絶っており、海外に行く人など皆無に等しい時代である。福沢にとって人種も政治も宗教も異なる海外での見聞は何物にも代え難いものであったろう。

3度の海外渡航で福沢は、政治、経済、文化全ての面において近代的な欧米とあまりにも遅れた自国日本の格差を痛感する。特に第2回ロンドン万国博覧会で見た蒸気機関車やガス灯などヨーロッパ産業革命の発展は衝撃的であった。「日本はこのままでは三等国に成り下がってしまう」との思いを強くし、帰国後にさっそく西洋文明に関する著述を開始する。江戸の蘭学塾を慶應義塾と改称、故郷中津に初の洋学校となる中津市学校を開設したのもこの頃だ。以降、本格的に啓蒙思想家、教育者としての道を歩み出す。

『文明論之概略』は1875年(明治8年)、福沢が40歳の時に著したもので、『学問のすゝめ』と並ぶ代表作の一つだ。第一章の「議論の本位を定むる事」から第十章の「自国の独立を論ず」までの全十章から成る。福沢は本書で、文明を人間の精神発達の度合いと捉え、遙か先をいく西洋文明の良き点を学ぶことで、日本国家と日本国民の精神的な独立を強く説いている。国家の独立とはつまり国民一人一人の独立である。イギリス人が人民による宗教改革によって変革を成し得た事、アメリカはその宗教改革の移民たちが作り上げた国家である事、フランス人がフランス革命によって真の自由を手に入れた事に触れ、日本も政府の中で全てが囲われた古い国勢から、国民主権による新たな国勢の変革を促している。余談だが福沢とほぼ同年代を生きた西郷隆盛も、本書の見識高い内容を称賛し、周囲に強く薦めていたそうである。

本書の主な箇所を見てみよう。第二章では現在の世界文明について「欧羅巴諸国、亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古、志那、日本等、亜細亜の諸国を以て半開の国と称す。これが世界の通論である」と、現在の日本が置かれた事実を客観的かつ冷静に指摘し、さらに「自国の有様を誇ることなく、彼に学びてこれに倣わんとし、あるいは自ら勉めてこれに対立せん」と、国力の違う相手と戦を起こすべきではないと戒めている。この十数年後から日本は戦争に突入していくのだが、まるで危うい国勢を見抜いているかのような発言ではないか。

第四章から第七章では文明の発達に必要な「人民の智徳」について論じている。このあたりが本書の最も核となる重要な部分であろう。「文明の進歩とは要は智徳の進歩である」と述べ、「智」とは「物を考え、理解し、合点する働き」のことで、「徳」とは「人のモラル、心の行儀」を表す。さらにこれらはそれぞれ「私」と「公」の二種類に分けることが出来る。一つ目は誠実、潔白、謙遜など心の内に属する「私徳」、二つ目は公平、正中、勇強など人間の交際上に見られる「公徳」、三つ目が物事の道理を究めて自身が応ずる「私智」、最後の四つ目が社会の軽重大小を分別し、重大を先にし、時節と場所を察する働き「公智」で、この四様の働きのうち最も重要なものは四つ目の「公智」であるという。つまり教養を深め、人格を磨き、その上で自分自身の私事は後回しにして、社会で起きている公の問題解決に積極的に関わっていけと言っているのだ。この「公」と「個」のあり方、「個」の自立した社会の実現の重要性は『学問のすゝめ』にも見られる。福沢思想の核心である事が伺えよう。

第九章の「日本の古来文明」では、自国について建国2600数年とは年数ばかりで今だ国としての体を為さないとかなり厳しい。北条にせよ織田にせよ豊臣にせよ徳川にせよ、才能あるものが貧しい階級や地域から抜け出して立身出世をしても、潤うは本人ばかりで、自身の出身階級の地位を高くしようとしない。それどころか相も変わらず階級を押さえつけようとする傾向がある、なぜ人民の暮らしを引き上げようとしないのかと憤る。その矛先は宗教にも向けられ、古来、自立した国内の宗教は皆無で、大半が時の政権に寄生した「御用の寺」であると辛辣だ。

最終章の「自国の独立を論ず」ではこれまでの論評を踏まえ日本の取るべき道を明示する。「日本の文明は西洋の文明よりも後れたるものと言わざるを得ず」と改めた上で、「文明の発展といっても、港を開放して、洋館を建てて、牛肉を食べて、洋服を着る事ではない。愚人は勘違いするかもしれないが、それは外形の体裁のみであって、真の独立とは結局、人民の気風にある」と私たち一人一人に行動を迫るのである。生涯に渡って学問を追究し、深い教養と智徳を備える事。かつ公の為に行動する事。これこそが福沢の言う本当の成熟した文明社会なのである。

福沢が本書を著してから約150年が経とうとしている。当時と比べれば、日本という国は、戦争など紆余曲折を経てきたものの、GNPでは世界3位と立派な経済大国になった。福沢が生きていれば信じられない気持ちだろう。立地や言語のハンデを乗り越え、よくぞここまで成長してくれたと褒めてくれるかもしれない。しかし福沢が言った文明という点ではどうだろう。まだまだ「国がやってくれない」「○○党がやってくれない」のような「寄らば大樹の蔭」のお上にすがる風潮はないだろうか。「お上」や「国」という物体は存在しない。「国」とは私たち一人一人の集合体だ。成長するも凋落するも各々の努力次第なのだ。

福沢が語っていた理想の社会の有り様が心に残る。人間が成熟すれば「次第に太平に赴き、太平の技術は日に進み、争闘の事は月に衰え、その極度を至りては、土地を争う者もなく、財を貪る者もなかるべし」「戦争もなく、刑法も廃止し、政府は世の悪を止まるの具にあらず、事物の順序を保ちて時を省き・・・・世に盗賊も無く、窓戸はただ風雨を覆い、犬猫の入るを防ぐのみにて、錠前を用うるに及ばず」「大砲の代わりに望遠鏡を作り、獄屋の代わりに学校を建て・・・全国一家の如く、毎戸寺院の如し。父母は教主の如く、子どもは宗徒の如し」。そんな良き世界である。

「今より幾千万年を経てこの社会になるだろうか」と諭吉は言う。社会を形づくる人々の気風は、1,000年前の平安時代より500年前の戦国時代の方が、戦国時代よりも300年前の江戸時代の方が、江戸時代よりも現代の方が、良くなって来ているはず。少しずつでも良いから成長していきたいではないか。世界では相も変わらずきな臭い諍いが続いている。しかし多くの艱難辛苦は人間の力で乗り越えていけるはず。例え荒唐無稽だと言われようとも、いつの日か福沢の願った「文明の太平の社会」が訪れる事を希求したい。

『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』 (岩波文庫) 日本戦没学生記念会『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』 (岩波文庫) 日本戦没学生記念会 1949年(昭和24年)

これが20歳そこそこの青年が書く文章だろうか、しかも何たる達筆------。靖国神社の遊就館で戦死者の手紙を見た時の感想である。この場所には西南戦争から太平洋戦争で没した多くの若者の遺品が展示されている。蓋し帰還の目算無き、暗澹たる境遇の中、郷里で待つ両親や兄弟、妻、子どもに宛てた手紙は、いずれも感謝の念や思いやりの情に溢れ、見る人の目頭を熱くさせる。今日8/15は67回目の終戦記念日だ。しかし千万の前途ある命を無造作に奪ってしまった戦争とは如何なる意義を持つのだろうか。

敗戦から4年後の1949年、『きけ わだつみのこえ』は、先に出版された東大戦没学生の手記『はるかなる山河に』の続編として、一大学のみならず全国から寄せられた戦没学生309名分の遺稿から75名分を収め刊行された。「わだつみ」とは「日本神話に登場する海をつかさどる神、海神」のこと。海に散っていった多くの若者の声を意味する。本書がよく言われるところの「掲載が高学歴の若者に限られている」「ありのままの事実を載せていない」については、この戦争の被害と影響が余りにも大きかったことを考えると、全ての意見をまとめることは容易ではなく、致し方ない面もあったのだろうと想像される。むしろ早く世に出す事が重要と考えたのだろう。以降、何度かの紆余曲折を経て、現在の岩波文庫の形に落ち着いている。

本書に収められた遺稿は誰かに見てもらおう、世の中に出そうと思って作為的に書かれた小説ではない。あくまでも親や子ども、親族、友達、恋人に宛てた手紙や個人的に綴られた日記である。それぞれの人となりが表れた率直な文章だ。今生の別れとなるであろう親や妻への無念を綴るもの、恐らく長男なのだろう家の指示を事細かに出しているもの、死の恐怖と苦悩を書き殴るもの、特攻の大役を担い奮起しているもの、太平洋戦争への疑問や軍国主義、帝国主義の批判を検閲の処罰覚悟で残しているもの、ムッソリーニやヒトラーのファシズムの危うさを論じるもの、軍隊における試験の解き方、生活の送り方を詳細に描くもの、マニラでの遭難記を小説並みに書くもの。一人一人みな違う。若者らしらに溢れている。戦地という極限状態の中で書かれたからこそ厳粛なのである。

「父さんが裸一貫でつくり上げられた家は、私にとってはだた一つ懐かしい思い出でした」(目黒晃氏)
「我、心より最も平和を望むものなり」(山岸久雄氏)
「世界中でただ一人のお母さん。御身御大切に」(真田大法氏)
「どうして我々は憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持ちになります。避け得られぬ宿命であったにせよ、もっとほかに打開の道はなかったものか」(瀬田萬之助氏)
「これでおさらばする。さて俺はニッコリ笑って出撃する」(大塚晨夫氏)

この戦争で日本という国が取った行動は賛否両論、いや否が大半だろう。しかし若者の死と国家は別だ。本書の「第二次世界大戦(太平洋戦争)があったこと」「先の戦争で日本では230万人もの若者が死んだこと」「その大半の若者が国の命令で戦地に行ったこと」「その若者が最後に残した文章であること」は厳然たる事実である。彼らの多くは学問に打ち込んでいたある日突然、学徒出陣によって、すでに戦局が悪化していた激戦地へいきなり送られたのである。今の私たちに想像出来るだろうか。学問を途中で断念せざるを得ないどころか、恐らく両親家族友人とも二度と会えないのだ。現在と違って人生に真摯な若者達の事である。その無念さが文章から深深と伝わってくる。建前だけの美文は一つとして無い。遺骨すら戻って来ない遺族にとって本人の直筆は何物にも代え難い。

本書出版にあたって編集の中心となった渡辺一夫氏の願いを引用したい。

「僕は、本書が、あらゆる日本人に、特に最近の戦争のことを忘れてけろりとしている人々に、のんきに政争ばかりしている政治家に、文化生活を謳歌する紳士淑女に、深遠な学理に耽る大学教授に、命令一下白い棍棒や長い竿をふるう警官に、裁判所へ「人民様のお通り」と叫んで赤旗ふりかざしながら突入するモブ(暴徒群衆)に、娯楽雑誌以外は本など全然読まぬ実業家に、幼い頃「楓のような手をあげて」「兵隊さん万歳」と言ったことのある今の学生諸君に・・・・・読まれて欲しいと思う」

まるで現代にも通じるこの辛辣な言葉は最近のものではない。敗戦からわずか4年後に書かれたものだ。あれからまだ60年しか経っていない。亡くなった200万人以上の若者の上に成り立つ日本。私たちはこの歴史的事実をきちんと理解しているだろうか。後世に残そうとしているだろうか。世の中がきな臭くなって来た時にこの惨事をすぐに思い出しているだろうか。人間は忘れがちな生き物だ。最も恐ろしいことは悲惨な過去が受け継がれず寸断され、世の中の記憶から消えてしまう事である。だから私たちはまずこの悲惨な事実をしっかりと認識しなければならない。亡くなった若者が遺した魂の想いを真摯に受け止めなければならない。そうでなければ彼らが余りにも報われない。

・『黒い雨』 井伏鱒二(広島原爆を扱った名著)
・『夏の花・心願の国』 原 民喜(実際に被爆した著者が願う未来)

『すみだ川・新橋夜話 他一篇』 (岩波文庫) 永井 荷風『すみだ川・新橋夜話(しんきょうやわ) 他一篇』 (岩波文庫) 永井 荷風


東京スカイツリーの開業で賑わいをみせる押上・向島地域。隅田川を挟んで浅草のちょうど反対側、東岸にあたる向島は昔、花柳街として栄えた場所で、現在でも当時を偲ばせる料亭や置屋が所々に残っている。永井荷風の代表作『墨東綺譚』の舞台私娼街玉の井もこの界隈である。高級官僚だった父のもと比較的裕福な家庭で育った荷風は、親や社会への反抗心の意味もあったのか、20代後半の頃から花街に入り浸り始めていた。しかし貧しいながらも社会の底辺で懸命に生きる人々と触れあう中で荷風のそれは創作意欲へと変わり始める。以降、彼にとって芸妓や花街は生涯で最も重要な執筆テーマとなっていくのである。

『深川の唄』は帰国後直ぐの明治41年12月に書かれた。四谷見附から築地両国行きの電車に行く当てもなく乗った荷風。6年ぶりに東京に戻ってきた彼は、車内の乗客を眺めているだけでも面白かったようだ。半纏股引の職人、ねんねこ半纏で赤児を負ぶった女、吾妻コオトを着た丸髷の美人、黄色い声を張り上げる車掌などを興味深く追いかける。ある昼下がりの光景を表しただけの何という事のない内容なのだが、聞こえてくる会話や仕草、描かれる人々の身なり服装は、明治時代の東京で暮らす庶民の息吹きそのものである。欧米遊学からの帰国後にすっかり変わってしまった東京を目の当たりにして、少々感傷的になっている荷風の心情が伺える作品だ。

少年の淡い恋心をみずみずしく描いた『すみだ川』は荷風初期の名作として評価が高い。亭主と死に別れて以来、浅草今戸で常磐津の師匠として生計を立てるお豊と18才になる一人息子の長吉、近くの小梅瓦町(現在のスカイツリーのある辺り)に住むお豊の実兄で俳諧の宗匠羅月の人生模様を抒情的に描いている。

息子の立身出世だけが楽しみのお豊は最近長吉の様子がおかしい事に気付く。原因は近々芸妓として置屋入りしてしまう幼馴染みのお糸である。苦悩する長吉は大事な昇級試験にも落第し、ついには「学校を辞めたい」とまで漏らし出す。予想もしていなかった事に驚いたお豊は慌てて兄の羅月の元へ相談に駆け込む。兄はその昔、放蕩の限りを尽くして家を追放されたほどであるから、こういう事にかけては経験が豊富なのだ。思春期を迎えた子どもの接し方に戸惑う母親と暖かい目で甥っこを支えようとする羅月。親の心配をよそにお糸に会えることを期待して今戸橋の欄干で暗くなるまで待ちつづける長吉。しかし現実は非情である。いよいよお糸との別れが迫って来たのだった。

初秋の黄昏を迎えてきらきらと輝く隅田川や待乳山の聖天様、浅草公園裏の宮戸座で繰り広げられる賑やかな浄瑠璃。明治浅草の写実的な描写が実に美しい。江戸っ子を地でいく羅月の人間味溢れる性格も物語に深みを持たせる。荷風は本編について「毎日の午後といえば必ず愛読の書を懐にして散歩に出かけた」「疲れたる歩みを休めさせた処はやはりいにしえの唄に残った隅田川の両岸であった」と回想し、戦乱後新興の時代で子どもの頃からの景色が壊滅に帰せんとしていることを嘆き、「隅田川という荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情を把ってここに何者かを創作せんと企てた」と執筆の動機を述べている。そういえば荷風は欧米に遊学中にもパリのセーヌ川やニューヨークのハドソン川の向こうに沈む夕陽をよく眺めていた。それは隅田川と同じ景色だったのであろうか。緩やかに流れる大河の向こうに少年時代によく見た光景や見慣れた人物への愛情、懐かしさを甦らせていたのだろう。

江戸末期から続く新ばし花柳界で働く芸者を書いた『新橋夜話』も『すみだ川』とほぼ同時期に発表された短編集である。「掛取り」「色男」「風邪ごこち」「牡丹の客」などの12編それぞれが独立したストーリーになっており、芸妓や待合いのおかみ、奉公小僧、彼女らのもとへ通う旦那衆らの人生悲喜こもごもがユーモラスに描かれる。事業で失敗した男、独立して店を構えた芸妓、しがない男といつまでも暮らす女、身分を偽って店に出入りする男。「夜」だけは誰もが輝ける一瞬なのだ。本編に登場する男女は互いに出会うことはない。人の数だけ人生はある。ここでも新橋という夜の町を舞台に12の人生が織り成している。

荷風は没後50年以上経った現在も雑誌などに取り上げられる事の多い作家だ。明治から大正、昭和にかけての失われた懐かしい風景や風俗を細密に描いているという事もあるだろう。本編でも金春、板新道、信楽新道など実際に存在した路地裏や置屋、料亭が度々登場する。しかしもっと本質的な事がある。彼が好んだ花柳街は一見華やかではあるが出自の立場弱き人間が多かった。ともすれば一段低く見られがちの人たちだ。それらの人に対して荷風は決して偉ぶらずに、同じ目線まで降りて、時には親以上の気持ちで接していた。だからであろう、彼の文体は、同時代の文士と比べて、女性のように優しく、日本語も美しい。リズムも綺麗だ。決して強くはないのに強がって生きざるを得ない人々、愚かではあるが懸命に今を生きている人々、弱き人をいつも作品の中心にした。だからこそ私たちは今も荷風の作品に心を揺さぶられるのだろう。

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