『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』 (新潮文庫) 井伏 鱒二
本書には井伏鱒二が40代の頃の作品3編が収められている。『さざなみ軍記』は都落ちをしていく平家一族を描いた歴史短編もの、『ジョン万次郎漂流記』は四国土佐出身の中濱萬次郎が送った数奇な生涯を描いた作品で直木賞を受賞した。最後の『二つの話』は少し変わった随筆とでも言うのか、戦時中、甲府に疎開した著者が、江戸時代にタイムスリップするという空想小説である。
大河ドラマの影響で平清盛が脚光を浴びている。何百年も続いた皇族と貴族による政権を奪った男。歴史的政変である。強烈なバイタリティと希代の能力を持った清盛だから成し遂げられたのだろう。治安の維持も清盛がいたからこそだった。だから原因不明の熱病で彼亡き後は、ガタガタと音を立てて壊れてしまう。東国から頼朝の挙兵、木曽からは義仲の侵攻が始まり、あっという間に平家は京都から逃げ落ちていくことになる。
『さざなみ軍記』は、平清盛の四男で三位中将であった平知盛の息子が書いた逃亡記の形で進んでいく。偉大な祖父(清盛)が一代で築いた栄華は短かった。平家凋落の原因は清盛の家族愛にあったのだと思う。親兄弟を殺された頼朝が雑草魂で恐いもの無しの武闘派集団を作り上げていったのに対し、清盛は一族に優しく甘かった。政権の中枢に全て親族を配置したのである。もちろん多少の性格の向き不向きは考えただろうが、内閣自体が大きな家族で、今でいえば外相も財務相も法相もみんな一族だった。全員が才能豊かな訳ではない。その結果、少しずつ綻び出し、清盛の逝去とともに瓦解したのである。
平知章と思われるわずか15、6才の若き少年の生き様が何とも切ない。武士としての自覚を持ち始めた彼は一族を守ろうと必死だった。平家は京都から福原へ、福原から兵庫山中へとどんどん追いつめられていく。源氏に比べて圧倒的な勢力を誇ると言われた平氏も、所詮は女性も子どももみんな一緒の家族の集合体である。戦いも慣れていなかった。本書の結末は一ノ谷の決戦。戦の天才児と言われた源義経が一ノ谷を攻めて来たところで日記も終わっている。著者は余計な説明を入れず淡々と綴る。そう、このシーンは平家物語の中で有名な「知章最期」の章である。この戦いで知章は父知盛を庇って死んでいく。その勇姿が実に儚い。
少年文学や教科書にも登場する有名なジョン万次郎。ジョン万こと中濱萬次郎が土佐に生まれたのは文政10年(1827年)。幕末の激動期だ。当時の藩主山内容堂と同い年である。当時の土佐には武市半平太や坂本龍馬、後藤象二郎など後世に名を残す人物が多数いた。しかし万次郎は血なまぐさい事件とは無縁で、13才の時、漁の最中に遭難し、助けられた外国船でハワイから米国本土に渡り、ようやく12年後に土佐に戻って来た。まるで浦島太郎である。
彼が米国で習得した最新情報や英語力、コミュニケーション力は、ペリーの黒船襲来でパニックに陥っていた日本にとって重要なものだった。何しろ欧米人と対等に話せる人間など皆無に等しい時代である。さらに万次郎には波瀾万丈の漂流生活で培った胆力と才覚もあった。幕府の通訳係を手始めに少しずつ信用を付け、最後には勝海舟や福沢諭吉らとともに遣米使節団として咸臨丸に乗船するまでになった。田舎の一介の漁師が使節団員になったのだから相当な立身出世だ。
本編『ジョン万次郎漂流記』は遭難から72才で亡くなるまで生涯を描いている。その緻密な描写とセリフを読むと、まるで井伏も一緒に漂流して米国に行ったかのようである。実際には生死ギリギリであるから日記などがある筈もない。帰国後に取り調べを受けた薩摩藩の記録や万次郎の長男が残した著書を参考に想像を膨らませて書いたという。幕末の志士とは全く異なる一生を送った万次郎。そんな彼にスポットを当てたのもどこか著者らしい。