津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2012年04月

『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』 (新潮文庫) 井伏 鱒二『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』 (新潮文庫) 井伏 鱒二

本書には井伏鱒二が40代の頃の作品3編が収められている。『さざなみ軍記』は都落ちをしていく平家一族を描いた歴史短編もの、『ジョン万次郎漂流記』は四国土佐出身の中濱萬次郎が送った数奇な生涯を描いた作品で直木賞を受賞した。最後の『二つの話』は少し変わった随筆とでも言うのか、戦時中、甲府に疎開した著者が、江戸時代にタイムスリップするという空想小説である。

大河ドラマの影響で平清盛が脚光を浴びている。何百年も続いた皇族と貴族による政権を奪った男。歴史的政変である。強烈なバイタリティと希代の能力を持った清盛だから成し遂げられたのだろう。治安の維持も清盛がいたからこそだった。だから原因不明の熱病で彼亡き後は、ガタガタと音を立てて壊れてしまう。東国から頼朝の挙兵、木曽からは義仲の侵攻が始まり、あっという間に平家は京都から逃げ落ちていくことになる。

『さざなみ軍記』は、平清盛の四男で三位中将であった平知盛の息子が書いた逃亡記の形で進んでいく。偉大な祖父(清盛)が一代で築いた栄華は短かった。平家凋落の原因は清盛の家族愛にあったのだと思う。親兄弟を殺された頼朝が雑草魂で恐いもの無しの武闘派集団を作り上げていったのに対し、清盛は一族に優しく甘かった。政権の中枢に全て親族を配置したのである。もちろん多少の性格の向き不向きは考えただろうが、内閣自体が大きな家族で、今でいえば外相も財務相も法相もみんな一族だった。全員が才能豊かな訳ではない。その結果、少しずつ綻び出し、清盛の逝去とともに瓦解したのである。

平知章と思われるわずか15、6才の若き少年の生き様が何とも切ない。武士としての自覚を持ち始めた彼は一族を守ろうと必死だった。平家は京都から福原へ、福原から兵庫山中へとどんどん追いつめられていく。源氏に比べて圧倒的な勢力を誇ると言われた平氏も、所詮は女性も子どももみんな一緒の家族の集合体である。戦いも慣れていなかった。本書の結末は一ノ谷の決戦。戦の天才児と言われた源義経が一ノ谷を攻めて来たところで日記も終わっている。著者は余計な説明を入れず淡々と綴る。そう、このシーンは平家物語の中で有名な「知章最期」の章である。この戦いで知章は父知盛を庇って死んでいく。その勇姿が実に儚い。

 

少年文学や教科書にも登場する有名なジョン万次郎。ジョン万こと中濱萬次郎が土佐に生まれたのは文政10年(1827年)。幕末の激動期だ。当時の藩主山内容堂と同い年である。当時の土佐には武市半平太や坂本龍馬、後藤象二郎など後世に名を残す人物が多数いた。しかし万次郎は血なまぐさい事件とは無縁で、13才の時、漁の最中に遭難し、助けられた外国船でハワイから米国本土に渡り、ようやく12年後に土佐に戻って来た。まるで浦島太郎である。

彼が米国で習得した最新情報や英語力、コミュニケーション力は、ペリーの黒船襲来でパニックに陥っていた日本にとって重要なものだった。何しろ欧米人と対等に話せる人間など皆無に等しい時代である。さらに万次郎には波瀾万丈の漂流生活で培った胆力と才覚もあった。幕府の通訳係を手始めに少しずつ信用を付け、最後には勝海舟福沢諭吉らとともに遣米使節団として咸臨丸に乗船するまでになった。田舎の一介の漁師が使節団員になったのだから相当な立身出世だ。

本編『ジョン万次郎漂流記』は遭難から72才で亡くなるまで生涯を描いている。その緻密な描写とセリフを読むと、まるで井伏も一緒に漂流して米国に行ったかのようである。実際には生死ギリギリであるから日記などがある筈もない。帰国後に取り調べを受けた薩摩藩の記録や万次郎の長男が残した著書を参考に想像を膨らませて書いたという。幕末の志士とは全く異なる一生を送った万次郎。そんな彼にスポットを当てたのもどこか著者らしい。

『青い山脈』 (新潮文庫) 石坂 洋次郎『青い山脈』 (新潮文庫) 石坂 洋次郎  昭和22年朝日新聞連載


戦後の日本を代表する青春文学である。本書は昭和22年6月から10月の間、朝日新聞に連載されると同時に多くの読者の共感を呼んでベストセラーとなり、著者の石坂洋次郎も一躍、国民的作家にのし上がった。原節子主演による映画化や藤山一郎の主題歌もブームに一層の拍車をかけ、当時の文学界、芸能界に多くの金字塔を打ち立てた。60年を経た現在も語られる事の多い名作である。

4年にも及んだ太平洋戦争で日本が敗戦したのが昭和20年8月。乗り込んできたマッカーサーら連合国軍(GHQ)によって大日本帝国の解体が始まる。昭和22年5月には日本国憲法が施行され、象徴天皇制や戦争放棄、国民主権、学制改革などの新しい政策が生まれた。焦土と化した国土と180度変わった社会。国民の不安は相当なものだったろう。

その混迷する時代に『青い山脈』は発表された。東北の海沿いの一都市を舞台に、戦前の暗い封建社会を打破し、人間的で民主的な社会の建設を目指そうとする若者たちを描いたもので、赴任してきたばかりの若い英語教師の島崎雪子、男女交際が原因で前の学校を追放された個性的な生徒寺沢新子、青年校医の沼田玉雄、金谷六助ら男子学生らと旧体制派の学校関係者の騒動で始まる。

きっかけとなったのが寺沢新子への偽ラブレター事件だった。あの有名な誤字だらけの文章である。「男女交際や男女共学」の議論が起き、校内は賛成派と反対派に割れてしまう。東京の大学出で先進的な思想を持つ雪子には旧弊が我慢ならない。生徒達に向かって、これからの日本が向かおうとする社会、「個」と「公」が対等であるという新しい思想を説いたものの、さらに騒動は学校内はおろか父兄や町全体を巻き込んで大きくなってしまうのだった。

著者の石坂は「私はこの小説で地方の高等女学校に起こった新旧思想の対立を主題にして、これから日本国民が築き上げていかねばならない民主的な生活の在り方を描いてみようと思ったのである」と述べている。敗戦によって生まれた新しい社会。それは古い価値観と新しい価値観の衝突だった。社会の変革とは既存権力の消滅を意味する。だから失う側は必死である。封建的な雰囲気が色濃く残る地方であれば尚更だろう。

しかし大衆の心を掴む才に長けた石坂の筆力は見事である。本書はともすれば陰鬱になりそうな雪子や沼田と旧体制派の対決もユーモラスにカラッと展開させている。脇役一人一人も愛嬌があって微笑ましい。何より敗戦後の暗澹たる時代の中、建設的に生きる若者達が実に清々しいのだ。いつの時代も青春群像とは不変であると思う。この爽やかさが当時大きな支持を受けた理由なのだろう。

 

 

『留魂録』 (講談社学術文庫) 吉田松陰、古川 薫(全訳注)「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂」 
十月念五日 二十一回猛士


これは安政の大獄で処刑された幕末の思想家吉田松陰が獄中で遺した辞世の句である。「わたしの人生は江戸の野原で終えてしまうが、日本を憂うこの魂だけは残って欲しいものだ」。この言葉からわかるように松陰は最後まで無私の人だった。もちろん結婚もしていない。行動原理の全ては、天皇を中心とする強固な国家を作り上げ、植民地化を狙う外国の手から日本を守るべきだという一点であり、脱藩も軍艦乗り込み事件も老中暗殺未遂事件も同じ論拠であった。

国家転覆を目論む彼の激しすぎる思想は当然幕府から危険視されていた。当時、絶対的な権力を持っていた老中井伊直弼による思想犯粛正の嵐が吹き荒れる中、松陰も捕らえられ伝馬町牢屋敷に投獄されてしまう。橋本左内ら先進的な思想を持った人間が次々に処刑されている事を聞き、松陰も死を覚悟したのだろう。牢中で松下村塾門下生あてに最後の訓戒の執筆にかかった。描き上げるまでわずか2日。『留魂録』は薄葉の半紙十数枚にびっしりと細かく書かれた正に「魂の記録」である。

本書はその遺書を下関出身で山口大卒業後に新聞社を経て作家として独立、長州に関する数々の著書を残している直木賞作家の古川薫氏が訳している。長州研究の第一人者である。解題、原文、現代語訳、さらには同氏が書いた史伝まで付いているのでわかりやすい。本書一冊で松陰に関する大凡のことは把握出来るだろう。

それにしても死を直前にした人間がこれほど毅然と高貴に振る舞えるものだろうか。『留魂録』の冒頭で松蔭は、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」を引用し、「処刑に至るのは私の徳が薄い所為であって、今さら誰も咎めないし、恨む事もない」と述べ、第三章では「吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ」と自分の説いた事の正否は後の歴史が判断してくれるはずと、死に対して怖じけづくどころか晴れ晴れとした感情すら見受けられる。

松陰の死生観を伺えるのは第八章の「今日死を決するの安心は四時の循環に於て得る所あり」あたりだろうか。印象的な箇所である。人間の一生は春夏秋冬のようなもので、惜しくも10代で死ぬ者はその10歳の中におのずから四季があり、30歳のものには30歳の四季があるという。自然と同じであるから、一生の中で咲いた花は種子となって、土に還り、また次の世代に花を咲かせるのである。だから恐れるに足りないのだ、と綴っている。

『留魂録』は天下の大事を成し遂げるための指南書でもある。だから弟子に出した指示は具体的で実に細かい。第九章では「私の死後は水戸の同士堀江・鮎沢と交わりを結んで欲しい」、第十三章では「尊攘志士の勝野保三郎を訪ねるがよい」と、志を同じにする多くの同士と連携しろと説く。そして「一敗乃ち挫折する。豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す」と、久坂玄端、入江杉蔵、高杉晋作、伊藤利輔(博文)ら松下村塾門下生に対して、尊皇攘夷運動の厳しさに決して挫折してはならないと必死に訴えた。

「思想は死なない」と言われる。その通りだろう。松陰亡き後、わずか8年で明治維新が興った。松陰の思想を受け継いだ多くの長州藩士が、世の中の中心となって日本を動かしたのだ。300年続いた強大な徳川幕府が倒れるなど誰が想像しただろうか。その天下の大事を成し遂げたのは世知に長けた年輩者ではない。江戸から遠く離れた田舎の20~30歳の若者だった。「自分たちの住む国は自分たちで創りたい」と純粋な気持ちで命を懸けた若者が新しい国を創り上げたのだ。いま私たちが住むこの国は、維新で命を落とした多くの若者の礎に成り立っているのである。

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