『桜の実の熟する時』 (新潮文庫) 島崎 藤村『桜の実の熟する時』 (新潮文庫) 島崎 藤村  1908年(明治41年)『東京朝日新聞』に開始


春は旅立ちの季節である。卒業、入学、入社、転勤と多くの人が新しい道を歩み出す。厳しき冬を堪え忍んだ大地からは草花の芽が萌え出し、山々には淡紅色の美しい桜がまるで人々の出立を祝福するかのように咲き始める。春夏秋冬、自然と共に生きてきた日本人にとって春は輝かしくもあり、切なくもある時季だ。だから目映いのだろう。

自伝的小説『春』で明治の荒波の中を文筆一本で生きていこうとする青年らの苦悩を描いた島崎藤村は、その11年後の1919年(大正8年)に『春』の序曲として10代の頃の自身を綴った『桜の実の熟する時』を発表した。失意と挫折の中、新たな道を歩み出すまでをみずみずしく描いた青春小説で、著者は「これは自分の著書の中で、年若き読者に勧めてみたいと思うものの一つだ。(略)巴里(パリ)ボオル・ロワイヤル並木街の客舎へ持って行って書き、仏国中部リモオジュの客舎でも書き、その後帰国してこの稿を完成した。この書は私に取って長い旅の記念だ」と述べている。藤村にとっても思い入れの深い作品であろう。

1872年(明治4年)に木曽福島で生まれた藤村は、9歳の時に東京に住む実業家の叔父の元に上京、泰明小学校を経て、1887年(明治20年)に明治学院(現明治学院大)へ入学する。在学中に出会った戸川秋骨や馬場孤蝶、巌本善治らとダンテの『神曲』や西鶴、芭蕉らを語り合う文学青年だった。そして卒業後には明治女学校で教職に就く。そのころの日本は1890年に発布された教育勅語によって天皇を中心とした近代国家へと邁進していた頃であり、古き社会慣習と新しき教育制度が混在する誰もが戸惑っていた時代だ。

藤村も人生の針路選択に苦悩していた。郷土の家族や東京で働く兄弟、叔父が期待する商人としての道と自分の考える文学の道は全く異なっていたのである。彼は呟く。「自分の前にはおおよそ二つの道がある。その一つはあらかじめ定められた手本があり、踏んで行けば可い先の人の足跡がある。今一つにはそれが無い。なんでも独力で開拓しなければ成らない」。藤村が歩き出そうとしているのは後者の道だった。

当時は現代と違って家制度や地域慣習に縛られ、自分の好きな道を進む事は容易ではなかった。無理に突き進もうとする者は社会的追放という制裁も覚悟しなければならない。彼は敬愛する芭蕉が遺した『奥の細道』の冒頭文「古人も多く旅に死せるあり」を何度も読み返し、そして吹っ切れたように全てを捨てて関西へ旅立つ事を決意する。それは一切のしがらみを絶ち文学で自立しようとする一歩だった。

自ら厳しい先の見えない道を選択した藤村がその後文学者として大成し、日本ペンクラブの初代会長など文学者の地位向上推進と後進の育成に当たったのは周知の通り。彼は自らの力で人生を切り開きそして成功を収めたのである。

自然は春に始まり冬で終わるのでは無く、春夏秋冬を繰り返し、新しい生命と役割を終えた生命が輪廻していく。それはもう何千年も続く自然の摂理だ。人も同様である。別れと出会いを繰り返しながら成長し大人になっていく。藤村が「年若き読者に読んで欲しい」と言ったのは目の前に如何なる困難が表れても決して諦める事無く、自身の信じた道を進んで欲しいと願ったからであろう。もう3月だ。長かった冬も終わる。街を歩きながら空を見上げてみると桜の実が息吹こうとしている。また新たな季節が来る。