津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2011年11月

『ふらんす物語』 (新潮文庫) 永井 荷風『ふらんす物語』 (新潮文庫) 永井 荷風 1909年(明治42年)

先日、米国際教育協会が発表した2010~11年度に米国の大学に在籍していた留学生の調査結果によると、日本からの留学生は前年度比14.3%減少し、10年前の半数以下にダウン、一方中国は2年続けてトップになったとあった。この結果だけで若者の内向き志向を談ずるのは早計であるが、10年前の半分ということは、内向き志向以外にもリーマンショックなどの経済的影響、大学進学率の上昇と3年次から一斉に始まる就職活動によって、行きたくても行けない流れが多分に影響していると思われる。

吸収力のある若者が海外に行くことのメリットは大きい。異なる宗教、人種、言語体験を通して、異文化への理解が深まる。視野が広くなり思考に深みが出て、異なるものを受け入れる度量も育むまれる。それらの経験は日本社会へフィードバックされ、結果的に日本の国力も高まるであろう。そう考えるとこの調査結果は少々残念である。その点中国などは国の勢いを反映している。きっと10年後には海外へ出た若者が社会の最前線で活躍しているだろう。

明治時代、文学を志す青年は余りにも貧弱な日本文化を嘆き、何とかコネクションを見つけて海外へ旅立とうとしていた。欧米文化をこの目で見て吸収するためだ。とは言っても余裕のない時代である。大半は国費かビジネスによる渡航で、それも学力の優秀な若者に限られていた。鴎外が国費でドイツへ留学、漱石もイギリスへ渡った。永井荷風の場合は24歳の時にビジネスとしてアメリカへ渡航、現地の大使館や銀行に務め学んだ。その後かねてから憧憬していたフランスへと向かったのである。

本書『ふらんす物語』は荷風が28歳の時から約1年間を過ごしたフランスでの体験をまとめたもので翌年29歳の時に発刊された。学生の頃に読みあさっていた自然主義作家が生まれ暮らしていた国への憧れが伝わってくる作品である。ニューヨークから船で1週間、フランスのル・アーヴル港に到着する時にモーパッサンの『情熱的生涯』に出てくる港の叙景を回顧するシーン、ル・アーヴル駅からパリへ向かう鉄道ではゾラの『獣人 LA BETE HUMAINE』を思い浮かべ興奮している様子が見て取れる。

彼が欧米で見た文化や風景、人との触れあいを綴った作品の数々は「耽美派文学」と言われた。「耽美派」とは大辞泉によると「美に最上の価値を認め、それを唯一の目的とする、芸術や生活上の立場。19世紀後半、フランス・イギリスを中心に興った」もので、日本では「明治末期に森鴎外・上田敏によって紹介され、雑誌「スバル」「三田文学」や第二次「新思潮」によった永井荷風・谷崎潤一郎らに代表される」とある。

フランスでの荷風は実に生き生きとしている。最初に滞在した南東部のリヨンでは仕事が終わると、毎日のように散歩に出かけ、中世に有数の交易地として栄えた古き町並みを心ゆくまで楽しんだ。市街を流れるローン河の向こうに「何とも云えぬ美しい薔薇色の夕映えに烟り渡っている」のを眺めながら、それまで暮らしたアメリカには見られないフランスの美しい黄昏に感嘆するのである。

近年、世界遺産に指定されたリヨン旧市街のフールヴィエールの丘やサンジャン大教会、カフェーや居酒屋で出会ったジプシーや娼婦、日本人駐在員との会食、旅行で出かけたマルセイユと食べることなく終わった名物のブイヤベエズの逸話、後半滞在したパリの裏通りで食べたイタリア料理、社交界に輝く巴里の女(パリジェンヌ)、オペラ座の前のひなびたカフェー、シャンゼリゼ通りの暗くて悪臭放つ地下道。荷風にとって出会いと経験の全ては「フランス!ああフランス!中学校で初めて世界歴史を学んだ時から子供心に何と云う理由もなく仏蘭西が好きになった。」への追憶であり、愛おしい仏蘭西そのものだった。

約100年前の仏蘭西の美しい四季とそこで生きる人々と町並みを描いたこの作品は良質の海外旅行記のようである。解説者中村光夫の言葉を借りれば「荷風が見たフランス、彼が愛したパリはヴァレリーが真の意味で「近代的」と読んだ、十九世紀の爛熟した文化がまさに二十世紀の激しい傾斜にさしかかろうとした」時代の苦悩するフランスの貴重な普通の生活をここにはっきりと見ることが出来るのだ。

『学問のすゝめ』 (岩波文庫) 福沢 諭吉『学問のすゝめ』 (岩波文庫) 福沢 諭吉 明治5年2月に第1編を出版


以前にも書いたが、私が子どもの頃住んでいた大分県中津市は、福沢諭吉の生家がある所で、当時通っていた南部小学校は明治4年に福沢諭吉の建議によって建てられた由緒ある学校だった。中津市教育委員会の資料によると「諭吉によって中津に西日本有数の英学校である中津市学校が創立され、組織作りには諭吉はもちろん、小幡篤次郎などがかかわり、学校の規則はすべて慶應義塾の規則に従って定められ、教員は主に慶應義塾の中津出身者が派遣された。明治6~9年には、生徒数が600名ほどにもなった」と言われているから当時としては恐ろしいほど優秀な学校であったと想像出来る。そのような経緯の学校だから、国語や道徳の時間には、福沢諭吉の伝記や『学問のすゝめ』をかなりの時間を割いて習うのだが、子どもにはどうも難しくてなかなか頭に入って来なかった事を思い出す。

福沢諭吉は1835年(天保5年)に大阪の中津藩蔵屋敷(支店のようなもの)で生まれ、1歳半の時に中津へ戻ってきた。幼少の頃より優秀だったようで、当時の藩校で重要視されていた四書五経(「論語」「大学」「中庸」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)などを読みあさってほとんど暗記していたとまで言われる。20代の頃には藩のお金で大坂の適塾へ留学。その数年後には江戸へ出て、蘭学などを学び、みるみるうちに教育家・思想家として力を付けていった。その後はご存じの通り、1859年(安政6年)、24歳の時に勝海舟らと共に咸臨丸でアメリカへ使節団として渡り、その2年後には文久遣欧使節でヨーロッパ各国へ派遣された。後の数多くの書に見られる彼の公平、自立といった思想は西欧によって磨かれたと言っても良いだろう。

『学問のすゝめ』は明治5年2月に第1編を初として、明治9年11月までに記された第17編から成る。大変な売れ行きだったようで本人曰く「発行70万冊、海賊版も入れれば、当時の日本の人口3500万人に比例して、国民160人に一人は読んだであろう」と豪語するほどだった。相当な人気振りである。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」この余りにも有名な文で始まる本書は、当時立ち上げたばかりの慶應義塾生はもちろん、故郷中津の子ども達というより日本国民全てに向けた諭吉の啓発書である。読んでみるとわかるが、何とも口が悪く、役人や学者をこっぴどくこき下ろしている。この自信振りというか明るい傲慢というか闊達さは福沢諭吉の性質の最たるものである。実に面白い。

諭吉が云わんとしているのは、「人間は生まれた時は公平で上下は無いが、なぜ大人になると貴賤や貧富の差が出てくると思うか?それは勉強したかどうかの差なのである」ということ。実語教の「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」を引用し、「一生懸命に学んだかどうかによって、頭を使う難しい仕事に就く人、手足を用いる易き仕事に就く人に分かれてしまう。それは収入や家庭環境の格差となって如実に表れてしまう。だから人は一生学び、人と触れあう事で社交を磨き、人格豊かな人間にならなければならない」と説く。もし今不本意な生活を送っていると自覚しているのであれば懸命に勉強して社会の彼方此方から求婚される人材を目指すべきなのだ。

彼が欧米で習得した思想は、当時の日本の教育界を数歩、数里先を行くものだった。ただ学ぶといっても、「むつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上の実なき文学を言うにあらず」(笑)と、現代の私たちが習ういわば国語的な勉強ももちろん大事であるが、むしろこれからは実学、「いろは47文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い」など、実社会に活きるものを習得せよと言う。それが終われば世界の趨勢を理解する「地理学」、人類のこれまでの道理を学ぶ「歴史学」、物事の道理・法則を明らかにする「究理学」、そして世の中の仕組みがわかる「経済経営学」を死ぬ気で学べと説くのである。福沢諭吉は先進していた欧米文化を目の当たりにして、日本の教育の遅れ方、戦争になればいとも簡単に侵略されてしまうであろう当時の日本のレベルに懸念を覚えたのであろう。

また彼は、「国と国民は同等で、お互いに平等な契約を以て成り立たなければならない」と説いた。古来、日本人は「お上が・・」という口癖あるように、幕府や政府に依存する、卑屈になる気質があるのだが、そうでは無くて「国民は税金という形でお金を払い、国が定めた法律を遵守する、国は受けたお金を基に国民の安全を悪人から守護より暮らしやすいようにインフラを整備する、その契約は互いに対等なのである事を強く意識せよ」と叱咤するのだ。私たちの心情はどうだろう。もしかしたら「国が悪い、民主党が悪い」と言うだけで終わっていないだろうか。他者を誹謗中傷していないだろうか。諭吉は「愚政は愚民のいる国に起きる」と厳しい指摘をしている。「教養深い国民が多い国の為政者は自ずと揉まれ立派な政治をおこなうはず。どうしても我慢出来ない事があれば声を上げるべきだ」「自分自身は捨て石となって終わるかもしれないが、一人二人三人と声を上げていけば愚政は必ずしや変化する」と説く。

人間は自立しなければならない。他人への依存はやめるべきである。これは本書の最も核となるキーワードだ。自立とは「他からの支配や助力を受けずに、存在すること」。男性も女性も自分の力でお金を稼ぎ暮らす事である。人に養ってもらう事ではない。しかもそれだけで満足してはいけない。真の独立とは、決して家の中の事、身の回りの事だけの自立ではなく、その目を社会、世の中に向け、日本がより豊かな国となって周囲の国から尊敬の念を抱かれるように意識、行動していくことなのだ。これこそが本当の精神の独立である。個人個人の独立には男性も女性も関係ないのだ。「国が、上司が、同僚が、主人が、親が」ではなく、自分たちの住むこの国が今後も永遠に発展していけるように、確固たる思想を持ち、視野を広くして、生きていく必要があるのだ。福沢諭吉は今から100年以上も前にその事を強く言っているのである。

福沢諭吉が生まれたのは1835年(天保5年)、坂本龍馬が生まれたのも1835年(天保6年)、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎も1835年、土方歳三も1835年である。私たちは、この自分たちの生活を省みることなく、国家のために命をかけて奔走し続けた1835年生まれの英雄達を今も想い、そして彼等が築いてくれた大きな財産の基で暮らしている事に感謝の念を抱かずにいられないのだ。

 

 

『徒然草』 (角川ソフィア文庫) 吉田兼好、角川書店 (編集)『徒然草』 (角川ソフィア文庫) 吉田兼好、角川書店 (編集)


吉田兼好は正しくは卜部兼好(うらべかねよし)と言う。神道界の名門である京都の吉田神社の神官の家系に生まれた兼好は、幼少の頃より恵まれた教育環境で育ち、十代の頃より後二条天皇の秘書官、左兵衛佐を勤めるなど実に順風満帆な人生であった。しかし30代の頃、その生活に嫌気が指したのか突如として出家、世捨て人となり遁世生活を送る。このあたりは下鴨神社の跡取りの名家に生まれながら、人里離れた所に住んだ『方丈記』の鴨長明と同じ雰囲気が漂う。

兼好が『徒然草』を執筆したのは48歳の頃、元徳2~元弘元年(1330~1331)頃の成立と言われている。「徒然つれづれ」とはどのような意味なのだろう。辞書大辞泉を引いてみると1.することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた、2.つくづくと物思いにふけること、3.しんみりとして寂しいこと。また、そのさま、4.長々と。そのままずっと、とある。

有名な序文である「つれづれなるままに、日暮らし硯に向ひて、心うつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやうしこそもの狂ほしけれ。」からは、世を捨てて何もやる事が無くなった事に対して反対に喜びを見い出した様子が感じ取れる。俗世から離れてみて始めて人間の持つ儚さや哀れさ、愛おしい部分が見えてきたのだろう。日々の見聞や随想を綴った全244段にも及ぶ本書は、無常観に基づく兼好の人生観・世相観・風雅思想がしみじみと表れているのだ。

700年以上も前の著書にもかかわらず今の世に通用する事が多い事に驚く。それは人間というものを扱っているからで、そもそも人間の本質とは古今余り変わらないからであろう。個人的にあじわい深かったものを少しあげてみたい。

第八十二段の「すべて、何も皆、事のととのほりたるは悪しきことなり。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり」では、物事が全て完全無欠に整ってしまうのはよくない。多少やり残して置いた方が、おもしろく、また将来に渡って仕事ができるのではないかと言う。現代はとかく100%完璧なのものを求めがちで息が詰まる事も多い。日本人は特にそうであろう。まるで人間が物事に振り回されているようでもある。少し心に置いておくと安堵できそうではないか。

第九十二段には「道を学する人、夕べには朝があることを思ひ、朝には夕べあらむことを思ひて、重ねて懇ろに修せむことを期す」とある。勉強をしようとする人は明日の朝があるからまだいいだろう、明日の朝になれば今度は夜があるからいいだろう、と先延ばし先延ばしでやる人間が多い。決心即実行しなければものごとは進まない。これなどは正に自分自身の事のようで反省しきりである。あと1日あるから、あと1週間あるから未だ大丈夫と、自分の心の中で勝手に先延ばししてしまうのである。

第百十段では「双六の上手といひし人に、その手立てを問ひ侍りしかば、「勝たむと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手かとく負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりとも遅く負くべき手につくべし」と言ふ。」と言う。名人に勝つ秘訣を聞いたところ、勝とうと思って打ってはいけない。負けないように打つことだ。どの手でいったら、早く負けてしまうかを考え、その手は避け、負けない方法を選ぶべきだ。ある高名なサッカーの監督に優勝の秘訣を聞いたら「負けないで最低でも引き分けること」だそうだ。ある経営者が以前言っていた。会社経営のもっとも重要な秘訣は?と聞かれたら、「倒産させないこと」。一見味気なくも聞こえるが、実に深い言葉である。

 

 

『蒲団・重右衛門の最後』 (新潮文庫) 田山 花袋 『蒲団・重右衛門の最後』 (新潮文庫) 田山 花袋 1907年(明治40年)発表


19世紀中頃に欧米で起こった自然主義文学とは、永井荷風も多大な感銘を受けたフランスの作家ゾラの『居酒屋』によって、印象的なあらゆる美化を否定し、人間をあるがままに客観視して、真実を見出そうとしたものであるが、当時の日本の文学界や社会には、それを咀嚼し受け止めるだけの土壌が無かったのであろう、1906年(明治39年)に自費出版で『破戒』を出した島崎藤村ら一部の文壇人によって、紅野敏郎の言葉を借りれば、従来の浪漫的な心情を持つ「青年」から人生に疲れた「中年」の男が主人公となる現実を直視する作品が少しずつ出始めた頃だった。

その頃、師匠・尾崎紅葉のもとで燻った作家生活を送っていた花袋にとって、フランスで勃興し始めた自然主義文学ブームは、脚光を浴びる絶好の機会であると考えたのだろう。花袋は『蒲団』の執筆に取りかかる。しかし彼はどうはき違えたのか、自然主義の「あるがまま」と自分自身の矮小な「私生活の暴露話」を同じ意味に結びつけた。自身をモデルにした、女弟子であった芳子への恋愛感情を赤裸々に描いた『蒲団』を発表する。明治の初期におけるこのショッキングな内容は日本における自然主義文学の意味を変えてしまった。ウィペディアによるところの「ゾラの小説に見られた客観性や構成力は失われ、変質させてしまった」のである。皮肉なことに自然主義文学の大御所と言われた田山花袋が日本の自然主義を歪ませたのである。

本書は、田山家の些事と並行して、ツルゲーネフの『その前夜』や『プニンとバブリン』、モウパッサンの『父』『死よりも強し』の解釈や「空の色は深く碧く、日の光は透き通った空気に射渡って・・」などの自然描写が彼方此方に出てくる。しかしその表現と内容が、どうも彼と同時代を生きた、外国で実際に学んでいた漱石や鴎外らの捉え方と比べると、多少の稚拙さを感じてしまうのだ。まるで言葉をこねくり回してしているように感じてどことなく浅薄なのである。その事は解説の福田恆存も「おもうに『蒲団』の新奇さにもかかわらず、花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。(当時の他の作家が外国文学を漁っていたけれど)花袋は(読んでいたものの)本質的な巡り会いを経験しなかったひとです」と述べている。また菊池寛も「田山花袋は読んでいるうちに可哀想になる」と言う意味の言葉を残している。

確かにその通りであろう。田山花袋はこの後に文壇の主流をなす東京帝国大卒ほどの知識が有るわけでもない。だからと言って師匠は江戸時代の追憶残る世代だから教えてもらう事は余りない。漱石のイギリス、鴎外のドイツ、荷風のアメリカ、フランスのように異国の文化を肌身で吸収した訳でもない。八方ふさがりである。だから田山花袋は読みあさった海外文学を武器にショッキングな内容を日本の自然主義文学として上梓した。日本文学が海外の進んだ文化を取り入れ成長する過程に登場した、いわば捨て石的パイオニアだった。

個人的には本書に収められているもう1編、『布団』の5年前の1902年(明治35年)に書かれた『重右衛門の最後』を推したい。信州は長野県の山あいの塩山村(架空)の閉鎖的な部落を舞台にしたもので、一人の狂人男に男によって翻弄され続けた村民が法を無視した最後の決断に出るという、半ば事実であるとも言われている話を描いている。法治国家の日本において法を有耶無耶にするのはあり得ない事であるが、明治初期の国家が揺れ動いていた時代の山奥の部落にとって、生活としていくという事は村と共存していくこと、自治とは「自分や自分たちに関することを自らの責任において処理すること」であった。和を悉く乱す人間が現れた時、おそらく表には出すことの出来ないものも多々あっただろう。『重右衛門の最後』はその時代と部落の暗闇を鋭く描いているのである。


■田山花袋記念文学館 群馬県館林市
http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/bunka/06_kine/06_kine.htm

 

このページのトップヘ