津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら』 (文春文庫) 永井 路子

永井路子が鎌倉時代の武士達に渦巻く怨嗟を描いた『炎環』で直木賞を受賞したのは1964年(昭和39)のこと。当時、小学館の女性編集者だった永井は、歴史の持つ運命の儚さを「一台の馬車につけられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引っ張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめきあい傷つけ合ううちに、いつの間にか流れが変えられていく」という言葉に例え、時代に翻弄され消えていく人間たちを描いた。

それから半世紀。常に第一線で活躍してきた著者は「人生を終えようとするとき、その答えの一部として、十九世紀後半を選んだ」と本書で幕末維新史を取りあげた。徳川家康が作り上げた十七世紀の奇跡ともいうべき豪腕緻密な社会は、300年を経て「指一本で倒せるところまで朽ちかかっていた」。次の権力は誰が握るのか。徳川家、公家、幕臣、薩長倒幕派、佐幕派が右へ左へ動き回る。十九世紀後半の日本は「野望が渦巻き、権力を廻ってすさまじい相剋が展開した」時代だった。

その中でも異色の存在だったのが公家出身の岩倉だ。権謀術数に長けた策略家などと言われてはいるが、もともとは久我家の庶流で家録わずか百五十石の公家に過ぎない。大久保西郷木戸のような強大な武力も持たない。普通に考えれば政治の表舞台に立つことは難しい人間なのだ。そんな岩倉がなぜ維新の中心人物として功成り名を遂げる事が出来たのか。そもそも大義となった「尊皇攘夷」「王制復古」とはどういう意味なのか。本書は維新固有の言葉の意味を剥きながら、明治という時代を冷静にみつめなおしていく。2008年には第50回毎日芸術賞を受賞している。

しがない下級公家だった彼がのし上がったきっかけとは。著者はその理由として、一つは当時、強大な力を持っていた公家の関白鷹司政通に取り入ったこと、他は実妹堀河紀子が孝明天皇の側近となったことを挙げる。特に天皇に寵愛され二人の子を産んだ紀子の力は大きかった。もちろんそこに岩倉特有の野心と策略があったことは間違いないだろう。彼は「公家」と「天皇」の間を巧みに泳ぎながら、少しずつ階段を上がっていく。

さらに時代も彼に味方した。革命には大義が必要だ。大義とは「権威」、つまり天皇の賛同である。「日本の歴史はこれまで権威と権力がワンセットになっていた」。藤原、平氏、北条、徳川然り、天皇の御旗の元、時の執政が権力を振るっていたのだ。だから薩摩も長州も幕府もみな天皇への接近を試みた。しかしうまくいかない。そこで「権威」「権力」双方にネットワークを持った岩倉が輝き出す。公武合体論の推進など多くの意見書を書き続け存在感を高めていった。

しかし岩倉は失脚、蟄居を命じられる。1862年から1867年の5年にも及んだ。諦めずに坂本、中岡、大久保らと連絡を取り合い、京の山奥に閉じこもったまま政治勢力の操作に力を注いだ。彼の暗躍する策謀家のイメージはこういったところから来ているのだ。

時代は大きく動きはじめた。1867年10月、慶喜は大政奉還を発表する。その後の小御所会議では非難渦巻く中、慶喜を追放、そして王制復古、摂政制廃止を決定。300年続いた江戸幕府を完全に終わらせたのである。そして平安時代から続いていた摂政・関白制度も吹き飛ばした。弱小公家出身である岩倉に取って五摂家と呼ばれる貴族に対する怨念そのものだったのである。

以降は周知の通りである。版籍奉還と廃藩置県を断行し、自ら使節団長となって世界各国を訪問、最後は五千石の右大臣にまで登りつめた。1883年(明治16年)7月、食道ガンで逝去。59才だった。

生前、岩倉は「公明正大に正論を展開するのが上計だが、これは労多くして功少ない。例えば屏風を真直に立てれば倒れるようなものだ。・・・少し屈折させれば立つように、権謀術数を駆使すればいい」と嘯いた。何とも岩倉らしい。彼の行動原理を物語る台詞である。

本書にはいわゆる立身出世話はあまり書かれていない。著者は「歴史小説とは、歴史表現としての人間を描くこと」であり、岩倉という人間を「全く別の視点から書いた」と述べる。確かに永井の作品を見ると、英雄の周囲で時代に翻弄された悲運を描いたものが多い。この世には光もあれば陰もある。いや陰があるからこそ光が輝く。同じように脚光を浴びた人間の陰には無名の生活で終わった人間がいる。いや大半の人がそうだろう。

「一人の英雄で世界が変わるほど歴史とは単純ではない」。「それぞれがモザイクのように嵌め込まれ、かかわりあって時空を支えつつやがて消えていく」。私たち一人一人は好むと好まざると歴史の中の一コマを演じている。歴史という大きな流れの中で存在し生きているのだ。「それぞれの存在は微少ではあるが、まぎれもなくその中に歴史は息づいている」。それは著者が50年の作家人生を通して出した結論だった。

『道元』 (河出文庫) 和辻 哲郎

夏目漱石『門』に主人公の野中宗助が、不安な精神の拠りどころを求めて鎌倉の寺で参禅する場面がある。結局、住職から軽くいなされて帰ってくるのだが、実はこれは漱石自身の経験に基づくものらしい。円覚寺で禅を試みたが余りものにならなかった事が後述されている。漱石が当時、精神的に追い込まれていたのは周知の事実であり、その打開策として禅を求めたのだとしたら、その頃持て囃されていた西洋哲学には説明出来ない、東洋的な何かがあると感じていたのかもしれない。

禅はいつ頃からあるのだろうか。日本に初めて禅を持ち込んだのは臨済宗を興した栄西だと言われている。いまから約850年前、鎌倉時代の頃だ。栄西没後に建仁寺を継いだ弟子の明全は、道元らの若者を引き連れ、1223年(貞応二年)に入宋、当時主流となりつつあった禅を景徳寺で学ぶ。しかし明全は突然客死、残された道元は天童如浄の元で1日20時間以上の厳しい禅修行を続け、1227年(安貞元年)に帰国する。日本における新たな禅の胎動であった。

曹洞宗の開祖で、日本の思想の歴史を形づくる哲学者となった道元を紹介した本書は、「古寺巡礼」「風土」などの著書で知られる哲学者の和辻哲郎が、1962年に著した「日本精神史研究」の一編「沙門道元」が底本になっている。和辻は本書を書くにあたって「禅に門外漢の人間が道元を理解できるのか、畢竟高きもの深きものを低くし浅くするのではないか」と躊躇しながらも、絶対の真理を体得していない自分がその探究の記録、受けた感動を書くことは自然なことであると確信し、道元の思想をまとめ上げた。

全部で9章からなる本書は、著者の主旨を述べた序文から始まり、禅修行の方法とその目的、同時代の浄土宗親鸞との違い、道徳、社会、芸術問題、そして曹洞宗の真理について、「正法眼蔵随聞記」を引用しながら、道元の人格、思想を独自の解釈で考察していく。「哲学の叙述を企てつつ途中で挫折した」という曰くがあったものの、道元を日本に知らしめるきっかけとなった作品であり、道元の思想を知る上ではお薦めの入門書になっている。

道元の言うべきことは「財欲を捨てよ、異色に心を煩わすなかれ」の一言につきる。「学道の人は先づ須く貧なるべし。財おほければ必ずその志を失ふ」と、俗世を捨てて出家せよ、座禅修行に励め、全てを放擲せよという。衣食住の欲からの脱離を真理の道への必須条件としているのだ。このことは華美装飾な像や建造物、文筆詩歌などの芸術的労作に流れていた当時の仏教の否定につながる。道元は「仏法興隆にあらざるなり。たとひ草庵樹下にてもあれ、一と時の座禅をも行ぜんこそ、真の仏法興隆である」と新たな思想を説いた。

修行の方法も厳格に定められている。あらゆる我欲を捨て、仏祖の言語行履に随う「仏祖盲従」、そしてその中核として自力証入を意味する「専心打座」である。念仏宗など他力の信仰が、自己の無を悟るのにたいし、道元の道は自ら我執を捨て、真理の追究に自ら身を投じることを求める。「他力と自力」。著者はここに著しい違いがあると言う。前者は解脱を死後に置き、後者はこの生において実現使用とする。模倣には導師なくして成し得ることは出来ない。名の唱えではなく人格の継承が必要である。修行者は素材、導師は彫刻家なのである。前者は自己の救済に重心を置き、後者は仏の真理の顕現に重心を置く。真理の前に自己は無である。真理のための修行なのである。

宗教界の英傑親鸞と道元の信仰の違いも面白い。例えば人間の持つ「悪」について親鸞はいかなるものでも許し、ただ専心に仏を念じよと説いたが、一方の道元は悪か善かは大きな問題ではなく、仏法のために、仏意を自己に中に顕現せよと説く。よって悪か善か、罪人が救われたか否かはさほど関係ない。行者自身の真理追究が主だからである。この違いについて和辻は「両社は根本において一である。が、それにもかかわらず異なった特殊性をもって現れる」とその特殊性に注目する。

真理顕現には煩悩の克服が必須条件である。「戒律による力強い自己鍛錬」だ。ただしそれを全ての人に求めている訳ではない。出家した仏法の模倣者のみに求めた。だから浄土宗などの念仏宗と異なり、もともとの対象者、信徒数がそれ程多くない。この事について「信徒数が多い方がいいのでは」と弟子が問うた際、道元は「勢力や建造を以てではなく、穏やかに座禅をこそが興隆である」「衆徒の少ないことを憂う無かれ」と答えたという。彼は「帝者に親近せず、丞相と親厚ならざりし」を信条とした宋の天童如浄に影響を受けた弟子である。「世間的に仏法を広めることをもって仏法興隆とは解しなかった」のである。

時の幕府の信任が厚かったことも禅宗の大きな特徴だろう。これは第5代執権北条時頼の存在が大きい。時頼は中国に僧を派遣して瞑想的な禅を導入させ、京都、鎌倉、越前に寺院を建立、定着を図った。迫害され世を追われた法然、親鸞、日蓮とは大きな違いである。その理由について和辻は、道元が持っていた「儒教への信頼」にあるのではないかと推測する。僧の徳と俗の徳を明確に分ける儒教的な精神が武士の思想に大きな影響を与えたに違いないのであろう。

信仰における人間の見解はそれぞれ異なって当然であり、統一しようとするには議論が必要になる。つまり葛藤である。しかし道元は「この葛藤こそまさに仏法を真に伝えるものだ」と主張した。どういう意味か。一般に(禅宗含めて)宗教とは人間の葛藤を絶とうとするものであるが、道元は「葛藤をもて葛藤に嗣続することしらんや」とした。仏法とは矛盾対立を通じて展開する思想の流れであり、明確な論理を持つ法の中にこそ「真理」の会得がある。しかもその法は人から人へ伝えられるものであり、礼拝することで人格的価値の段階があがっていく。つまり「人間の努力に十分な意義を与え、絶えざる精進が人生の意義になる」。この一文に宗教家としてではない哲学者の道元を見ることが出来るのである。

『日蓮』 (山岡荘八歴史文庫)平安時代末期から鎌倉時代にかけては多くの新しい仏教宗派が誕生している。日蓮の日蓮宗や法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などである。これら新仏教の特徴は、旧来の天台宗や真言宗、南都六宗と異なり、いずれも市井の武士や農民と直接向き合いながら布教したこと、出家や学問などの苦行が不要で信仰のみを問うたことなどが挙げられる。

時代の空気と合致していた。終わりの見えない戦さや度重なる地震、飢饉、大火、伝染病が吹き荒れる中、今日を生きるのに必死であった民衆にとって頼れるものは、私利が横行闊歩していた政治ではなく、穏やかに明日の人生を包んでくれる宗教だった。人々に寄り添いながら新しい仏教は急速に広がっていくのである。

これら穏やかな宗教家の中でひときわ異彩を放つのが日蓮だろう。他宗教や政治を厳しく批判し法華経を説くその鋭利な姿勢は凄まじかった。日蓮の思想はどうやって生み出されたものなのか、世の中にいったい何を遺したのか。本書は、『徳川家康』や『伊達政宗』などで数々の歴史的英雄を取り上げてきた山岡荘八が、日蓮の幼少期から「立正安国論」執筆の時代までをダイナミックに感動的に描く。1952年(昭和27年)の作品である。

日蓮は1222年に千葉県小湊町で漁師の子として生まれた。幼少時の名を善日丸と言い、非常に素直で聡明な少年だったらしい。12才の時に「人がなぜ不幸せになっていくのか知りたい」と房総一の名刹清澄寺へ入門し、一心勉学に励む。しかし殺生、偸盗が蔓延る末法の世に嘆き、「人はなぜ破戒に覆われているのか」「八宗十宗は一つになって浄土の将来に尽くすべきなのに、なぜ派閥を作って争っているのか、いっこうに極楽浄土に近づけないではないか」と、山を下って真の仏法を求める旅を決意をする。17才の時だった。

幕府のあった鎌倉、仏教界頂点の天台宗比叡山、園城寺、京都では曹洞宗の禅や臨済宗、南都では法相宗の薬師寺、空海の真言宗高野山、さらには孔子孟子まで全ての書を読み尽くし、真理の教えを追求したが、納得のいくものはなかった。結果的に日蓮は確信する。釈尊の言った「末法の世にこそ「法華経」を信じよ」こそ真理であり、「我が身の不幸から衆生済度の実践」が進むべき道であることを。この果敢に攻め入るアグレッシブな性質は保守的な他の宗教人には見られない。後年の日蓮の言動を理解する上で極めて重要な点である。

1253年(建長5年)、故郷清澄山ではじめて「南無妙法蓮華経」を唱えて、他の宗派を烈しく糾弾、法華経の絶対性を主張する。しかし攻撃された側は怒り心頭で、他の仏教や領家を敵に回してしまった。「他宗の攻撃は、ただ憎んでの攻撃ではない。仏法を一つの正法にせんがための涙をのんでの鞭である」と改める気もない。

故郷にいられなくなった日蓮は鎌倉に出て辻説法を始める。石を投げられたり罵声を浴びたりしても屈せず6年間毎日続けた。そのうち少しずつ信者が増えて、庵のある松葉ヶ谷は賑やかになってきた。1260年ついに行動に移す。時の最高権力者である北条時頼に天変地妖、飢饉疫癘の世に対する救世の方策と現在政治の否定、諸宗攻撃を綴った「立正安国論」を提出したのである。一切の他宗を退け、「正を立て国を案ずる」策を講じよ、このままでは魔、鬼、災、難が立て続けに起こるだろうと、半ば脅迫めいた提言をするのだ。一歩間違えればその場で慚死ではないか。誰であろうと自身が信ずる真理を懇々と説く。日蓮の行動を覆っていた思想である。

本書はなぜかここで終わるのだが、その後も艱難辛苦は続いた。提言が幕府の怒りを買い、伊豆へ流された。3年後に戻ったかとおもえば、また政権に向かって改革を説く。相手が理解するまで何度でも直訴するつもりなのだ。今度は当時の最重要犯罪人が送られる厳寒の佐渡に流された。その年の10月蒙古軍来襲し、国中が大混乱に陥った。命を賭けた予言が当たったのだ。政府は日蓮を鎌倉へ戻す許可を出す。そして存在を認めた。日蓮の精神が勝った瞬間だった。

晩年は山梨県身延山で穏やかな日々を送った。1282(弘安5)年9月、武蔵野国池上で61才の生涯を終える。日蓮の長い戦いは幕を閉じた。

日蓮は何の後ろ立てもなく全くの一人で始めた。狂気に近い不屈の精神だけが支えだった。宗教家としてももちろん一流であったが、政治家、教育家としての素養も持ち合わせていたと思う。法然親鸞が個人個人の浄土を説いたのに対し、日蓮の教えには「現在の世を正しく生きよう。そうすれば平和な世の中になって、皆が幸せになる」という国づくりのメッセージも多分に込められていた。庶民が政治の事に口を出すなど考えられない鎌倉時代だからこそ日蓮の行動は光り輝いているのだ。

内村鑑三が自著「代表的日本人」の中で日蓮を全世界に紹介していたことを思い出す。「日本人の中で日蓮ほどの独立人を考えることはできません。その創造性と独立心によって、仏教を日本の宗教にしたのであります」「受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でした」「彼は自分自身の意志を有していたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかしそういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです」。最高の賛辞である。

『戊辰戦争―敗者の明治維新』 (中公新書) 佐々木 克薩長倒幕派による国家樹立を確固たるものにした戊辰戦争。1868年(慶応4)戊辰の年の正月に始まった鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜らの旧幕府派に勝利し、勢いに乗った維新政府軍は、その2ヶ月後に西郷・勝会談で江戸城明け渡しに合意、7月には大村益次郎指揮の元で上野彰義隊を壊滅。その後、奥羽越列藩同盟を結成して抵抗する北越東北へ進軍し、長岡藩を撃破、最大の決戦となった会津戦争で会津藩を制圧。翌年5月には箱館五稜郭へ逃走した榎本武揚軍を鎮圧し、内戦は終了した。

戦争が起きる理由は様々だが、一般的には政治的、経済的による衝突であることが多い。今回の場合、天皇を中心とした中央集権体制並びに薩長中心の政権を目指す維新政府軍と旧幕府派による「どちらが新しい国の主導権を取るか」の権力闘争であった。結果は戦争経験に富み近代武力を用いた維新軍の圧倒的勝利に終わり、新しい国家が誕生した。絶大な権限を掌握した薩長藩は以降、ドラスティックに版籍奉還・廃藩置県などの近代化改革を進めていくのである。

「これまで敗者を分析したものはあるが、戊辰戦争全体を敗者の側から記述したものは、きわめて少ない」。自身の実家が戊辰の舞台となった秋田県出身の著者佐々木克は、世の脚光とは逆の立場から本書執筆にとりかかった。1976年(昭和51年)に上梓された『戊辰戦争』は、維新文献の大家原口清や石井孝の書、「復古記」「維新史」や未公開の「宮島誠一郎戊辰日記」などの膨大な資料を丹念に読み込み、説得力ある数字と詳細な日付を提示しながら、全国で起きた戦争を追いかける。

「東北は決して戦争を望んでいた訳ではない」。最後まで抵抗した会津藩容保と桑名藩定敬の松平兄弟、長岡藩家老河井継之助の行動や奥羽越列藩同盟の設立趣意書を見ても、誰もこのままの徳川幕府で良いとは思っていないことがわかる。そもそも当の慶喜に戦意が無い。むしろ彼らは薩長の専横的なやり方に反対し、公儀政体による新しい諸藩連合政権を求めたのではないか。確かに東北諸藩が作成した新国家プランは稚拙で実現性の低いものであったが、かといって彼らが思想を持っていけない訳ではなく、ましてや朝廷を敵視したものでは絶対になかった。これでは「勝てば官軍、負ければ賊軍」ではないか。そう著者は言う。

時勢を直視すると、徳川300年政治の腐敗がひどかったことや人民はもちろん諸外国もが政治の刷新を求めていたことは事実であり、日和見の藩がほとんどの中で薩長だけが自らその先頭に立ち、長州征伐や安政の大獄で自藩に多数の犠牲者を出しながらも幕府と屈せずに戦ってきたことも事実である。薩長はこの戦争でも「少しでも気を許せば維新は成立しない」「負ければ自藩が壊滅させられる」と必死だったであろう。だから鋼鉄の意志で徹底的に抵抗勢力を潰しにかかった事も理解できる。むしろ薩長がいなければ維新は成し得なかったし、日本の近代化は何十年も遅れたであろう。

誤解を恐れずに言えば戊辰戦争の目的は維新軍も旧幕軍も大同小異であったと思う。しかしちょっとした構想や立場の相違がどんどん広がって、ボタンを掛けるのが難しくなってしまった。そこに歴史の儚さがある。

「戦争があり、勝者と敗者に決着がついてしまった以上、敗者の側が勝者によってなんらかの形で裁かれるのは歴史の必然で仕方のないことである」「戦争主体が武士階級であってみれば、敗れた者が敗残の人生をたどるのは、武士としては当然すぎるほどの運命」。休戦に向けて奔走した河井継之助や勝海舟、山岡鉄舟、榎本武揚らの努力が実っていれば・・・。そうすれば同じ日本人同士で殺し合う事も無かったと著者は悔やむ。

この戦争では多くの人が亡くなった。徒手空拳で銃に立ち向かい散っていった無数の無名藩士、会津落城を聞いて自害した西郷頼母の妻と子供、その家族達や十代の青年で構成された白虎隊、長岡戦争で敗れ会津に向かう途中に死んだ河井継之助、農民の出でありながら箱館戦争で武士より武士らしく勇敢に戦死したといわれる土方歳三、領地替えで極寒の僻地で餓死した会津農夫。戦後、東北は長年にわたって物理的、心理的な負の遺産に苦しんだ。

これらの非業の死をただ「欧米諸国に肩を並べようと近代化を目指した中で起こった時代のうねり」の一言で片付けるには余りにも切なく悲しい。そして余りにも無責任だろう。一人一人の自由と平等が保障された国家、公正で公平な競争が尊ばれる社会。私たちが暮らすこの恵まれた社会は、わずか140年前に起こった変革と多くの犠牲者の上に成り立っている。そのことを忘れてはならないだろう。

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