津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

タグ:夏目漱石

『坑夫』 (新潮文庫) 夏目 漱石『坑夫』 (新潮文庫) 夏目 漱石 1908年(明治41年)朝日新聞に連載開始

かつて日本は世界有数の銅産出国であった。明治政府の富国強兵策に伴い外国から最新技術を導入した各鉱山は、技術水準が大幅に向上する。特に足尾銅山は全国の産出量の1/4を占める日本最大の鉱山に成長、一万人以上の坑夫雇用を生み出す基幹産業に変遷した。

しかしその一方で、急激な近代化はさまざまな歪みを露呈する。1890年頃には鉱毒流出によって付近の農地一帯を汚染させた足尾鉱毒公害事件を引き起こし、1907年には過酷な環境に不満を爆発させた坑夫が施設をダイナマイトで破壊、放火した足尾暴動事件が起きた。長時間労働と低賃金、後を絶たない事故と犠牲者・・・炭坑の厳しい労働環境は大きな社会問題となっていた。

本書『坑夫』はその足尾銅山で労働した青年の体験記風小説である。漱石の小説は自身の経験が基になっていることが多く、昔炭鉱でアルバイトを?と思ってしまうのだが、今回は経緯が少し異なるようだ。その辺は「『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉」が詳しいので譲るとして、簡単にまとめると以下の通りである。

暴動事件の起きた1907年の秋に、漱石の元へ一人の若い男が訪れて「自分の身の上に斯ういふ材料があるが小説に書いて下さらんか。」と足尾銅山での坑夫の経験話を持ち出した。漱石は無論断ったのだが、しばらくしてから、朝日新聞に1908年1月から連載予定だった島崎藤村の『春』が執筆遅れで延期になり、その穴埋めを自身がしなければならなくなった。

困った漱石はいつぞやの炭鉱ネタを思い出した。タイムリーであるし、書き方によっては面白くなるだろうと思ったのかどうかはわからない。その男に「坑夫の生活のところだけを材料にもらいたいがさしつかえあるまいか」と打診したところ「いっこうさしつかえない」と許しを得て、新聞に書き出したのが『坑夫』らしい。しかも30回位の積もりが長くなって90余回になった。作家も新聞社も原案者もみんなどこかのんびりした牧歌的な時代であった。

本書は裕福な家庭に生まれた19才の青年が主人公である。許嫁とは別の女性を愛したことから両親と衝突を起こし、自棄になって家を飛び出してきた。あてどもなく落ちてきた旅先で「儲かるんだが働く気はないか」と声を掛けてきた手配師の誘いに乗って「坑夫」になる事を決意する。汽車に乗り(恐らくカバー装画は当時の足尾鉄道だと思われる)、山中を歩き、ようやく銅山に辿り着いた。しかしそこは浮き世では見たことのない別世界だった。

まわりを見渡すと、真っ黒く光った獰猛で屈強な男や今にも死にそうな痩せ衰えた男ばかりで、書生風の男などいやしない。新入りの青年を見つけるなり男たちは「お前みたいなやせっぽちは役に立たねぇ」「帰れ」「帰れ」と侮辱し、嘲笑する。十四銭五厘の南京米膳は壁土のようでまずかった。薄汚く湿っぽい蒲団で寝ると南京虫が出て来て身体を何カ所も刺された。嘲笑う男の声が聞こえてくる。青年は泣きたくなった。そして心の中で「無教育な下等め。畜生奴」と思い切り彼らを見下すことで自分の存在を何とか保とうとした。

「書生さんで此処へ来て十日と辛抱したものあ、有りませんぜ」。初さんという男に連れられて入ったシキ(炭坑の中)は恐怖だった。段々に道が細くなって這って進まなければ抜けられない。上からは水が落ちてくる。すのこと呼ばれる鉱を放り込む深い穴はまるで地獄釜のようで落ちれば絶対に上がってこれない。あちこちでダイナマイトの爆破音が響く。さらに梯子を下っていくと地獄の底に出た。腰の高さまで水に浸かっている。ここで1日3交代、毎日8時間穴を掘ると聞かされ、主人公はまたも涙が出て来てしまう。そして「みんなは元気だろうか」と東京を思い出すのだった。

物語は大きなクライマックスも感動的なシーンも無く何となく終わる。漱石によくあるパターンだ。本書では青年の心情描写に相当数のページが割かれている。家出をした若き主人公の葛藤であり苦悩である。なぜ世の中はこんなにも難解なのだ、なぜ人間はこんなにも解きがたいのか、自分は正しかったのか、間違っていたのか。死ぬつもりだった主人公は俗世の全てを忘れられると考えこの別世界に入ってきた。しかし地獄の此処も単純な世界ではなかった。有象無象の獰猛な輩が歩き回っている。下等な社会だと見下していたが、此処にも此処の世界がある。結局、青年は5ヶ月滞在した。そして少しばかり成長して帰京したのである。

朝日新聞入社した漱石は、『虞美人草』に続く二作目として『坑夫』を書いた。前述の通り、急遽、藤村の代役を引き受けることになったため、構想時間はほとんど無かったと想像される。しかも他人の経験を基にした題材という難しい中でのスタートだった。未知の部分が多かったはず。本書では『虞美人草』にも似た人間関係の構図を採用している。これは半年後から連載が始まる『三四郎』以降の青春三部作に繋がっていく構図である。いわば漱石の作品基盤となっていくものだ。そう考えると異色と言われる本書も重要な試みであった。

『文鳥・夢十夜』 (新潮文庫) 夏目 漱石『猫』や『こころ』など長編小説のイメージが強い漱石だが、朝日新聞社の専属作家として勤め始めてからは、日々のちょっとした雑感めいたものやエッセイ風日記なども数多く手掛けている。国文学者の三好行雄の拠ると、こういった小説とも感想ともつかないあいまいな領域は<小品>と呼ばれており、辞書にも「日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。」とある。日本近代文学の中ではきちんと確立されたジャンルなのだ。

本書にはそんな珠玉の<小品>七編が収められている。ペットの死を描いた「文鳥」、妄想の恐怖がひしひしと迫る「夢十夜」、ロンドン留学回想や日常生活を思いのままに綴る「永日小品」、大量吐血で生死をさまよっていた頃を回想する「思い出す事など」、東大時代の恩師を偲んだ「ケーベル先生」、入院中の一コマを描いた「変な音」、モーパッサンの「二十五日間」をモチーフに瀟洒な感じの「手紙」である。どの作品も小説からはなかなか窺うことのできない漱石の素顔や肉声が感じられる。初心者にも親しみやすい短編といえよう。

「文鳥」は、弟子の鈴木三重吉から勧められ飼い始めた文鳥を家人の不手際で死なせてしまうまで数日を描く。子どもの頃に飼っていたペットの死を嘆き悲しんだ記憶を持つ人もいるだろう。世の中の命あるものは「生」と「死」を自ら決めることはできない。漱石は一羽の文鳥の死を通して生きることの儚さやある日突然この世から消えてしまう怖さ、残酷さを描いている。そういえば川端康成の「禽獣」も小鳥の死が題材であった。本編のオマージュなのかもしれない。

相次ぐ大作の執筆でもっとも脂の乗っていた明治43年、漱石は大量の吐血が原因で人事不省、危篤状態に陥った。一時は医師からも見放され、親族や弟子、仕事関係者が次々に集まり、葬儀の段取りまで話は進んでいたらしい。本書の「思い出す事など」では、転地療養先の修善寺温泉で感じた事、考えた事を率直に綴っている。本書の彼方此方に盛り込まれた漢詩と俳句も漱石の多才振りを知ることが出来る。

後に妻から「あの時三十分ばかりは死んで入らしったのです」と聞かされ愕然とした漱石。「子供の時に悪戯をして気絶した事は二三度あるから、それから推測して、死とは大方こんなものだろう」と想像していたものの、実際に自分が二つの世界を行き来したことに茫然自失とし、「死とはそれ程はかないものか」と思う。幸いにも医師の努力によって病状は回復し、後年の活躍は私たちの知るところだが、以降、漱石の心の奥底には「余は一度死んだ」の一念が消える事なく植え付けられ、晩年の一連の作品へと昇華していく。

一方、この重病を機に漱石の心情に大きな変化が表れたことも見逃せない。二、三十代の頃の漱石は、「世の中は不人情だ、住みにくい。今の世の中はどうなっているのだ。欧米が何だ。エゴの固まりではないか」と、現代社会への怒りと不信で頭と心は憤懣していた。しかし大勢の人が尽力してくれた事に対して、ふと病院の天井を見ながら「世の人は皆自分より親切なものだと思った」とつぶやき、「四十を越した男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世間が、これ程の手間と時間と親切を掛けてくれようとは夢にも思わなかった」「余のためにこれ程の手間と時間と親切とを惜しまざる人々に感謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊す者を、永久の敵とすべく心に誓った」と思う。彼の心情の中に「忽ち暖かい風が吹いた」のであった。

『虞美人草』 (新潮文庫) 夏目 漱石1907年(明治40年)朝日新聞に連載開始

夏目漱石が作家として一本立ちしたのはそれほど早くなかった。同い年の尾崎紅葉が29才の時に読売新聞で連載した『金色夜叉』で世を席巻していた頃、漱石はまだ地方の一介の高校教師であり、国家派遣で英国留学を目前に控えていた位だった。出世作となった『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を執筆した時でさえ実はまだ大学に勤めていたのである。ガツガツしていない余裕派的な要素はこういった部分にも見られる。

転機は40才の時に訪れる。読売における紅葉のような自社専属の看板作家を探していた朝日新聞が、押しも押されもせぬ人気作家となっていた漱石に白羽の矢を立て、職業作家としての生涯がスタートした。解説にある小宮豊隆によれば漱石の入社は「当時の一大センセーションであった」らしい。いくらヒット作を連発していたとはいえ、平成の現代とは世相が全く異なる。明治維新以降、絶対的な身分であった官職の中でも権威ある大学教授の職を捨て、作家として新聞社で働くなどは考えられない事だった。

朝日新聞での記念すべき第一作目に何を書くか。漱石の岐路である。これまでの「本業の合間に気ままに書いていた」ものではなく、紙面の向こうにいる大勢の読者を喜ばせるような作品にしなければならない。恐らく担当者と侃々諤々があったと想像される。決定した題材は、決して裕福ではないものの頭脳優秀な学生が、高貴な女性を巻き込み、階層社会の中で成り上がろうと藻掻く、というまるで紅葉の『金色夜叉』のような内容だった。ずいぶん世俗的な感じではないか。漱石がこの材に納得していたかどうかはわからない。とにかく世間が注視する中、『虞美人草』は1907年(明治40年)に連載が始まった。ちなみに虞美人草とは「ヒナゲシ」の別名で、『史記』に出てくる項羽の恋人で、戦に敗れた項羽の後を追って自決した女性と言われる。

貧しい家庭に生まれながらも、大学卒業時に恩賜の銀時計をもらうほどの秀才だった小野は、国家試験を目指して勉強中で、順調にいけば行く末は高級官僚だ。だがそれにはお金が必要で、打算の気持ちから、資産持ちの同級生甲野の妹の藤尾と交際を始めていた。藤尾は天性の美貌の持ち主だが性格は我が儘で烈しくクレオパトラとも評されている。見栄っ張りの藤尾の母も何とか娘を将来の官僚候補に嫁がせようと画策する。その一方で小野は義理に頭を痛めていた。大学時代の恩師からも純朴な娘の小夜子との縁組みを薦められていたのだ。事態は甲野兄の友人の宗近とその妹の糸子、さらに父をも巻き込んでややこしい方向へ進んでいく。美貌と金を取るか、恩義と性格を取るか。小野の優柔不断でどっちつかずな態度が悲劇を生み出すのだった。

本書で漱石は、これまでの『坊っちゃん』『草枕』に見られる穏やかでほろ苦い青春像から一転して、まるで昼ドラのような感情が縺れ合う愛憎劇を描いている。職業作家として新しい分野へのチャレンジといえよう。とは言ってもそこは漱石のこと。現在の内容が希薄なドラマのように、単に人を傷つける人間しか出てこず、不快感しか残さないものとはまったく異なる。

作品の舞台は日清・日露戦争の勝利で日本中が沸き立っていた明治中期。近代化が進み新しい文明が次々に入って来ていた時代だ。小野や藤尾も文明の象徴である博覧会を見学し、燦めくイルミネーションに心を時めかせている。誰もが背伸びをして貪欲に西洋文化を吸収しようとしていた時代なのだ。

漱石はそんな軽薄な世の中に警鐘を鳴らす。精神がおかしくなった藤尾の母に対して「神経衰弱は文明の流行病である」と突っ込み、宗近の父さんには「文明の圧迫が烈しいから上部を綺麗にしないと社会に住めなくなる」「その代わり生存競争も烈しくなるから、内部は益不作法になる」「これからの人間は八つ裂きの刑を受ける様なものだ」「ことに英吉利人は気にくわない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でも我流を通そうとする」「日本がえらくなって英国の方で日本の真似でもする様でなくっちゃ駄目だ」と文句を言わせている。

2年余りの英国ロンドン留学で西洋と東洋文明の相違を痛感し、個人主義と協調主義、実利と徳義の優劣について深い思索を繰り返した漱石。浮かれた今の日本は哀れですらあると感じていた。本書『虞美人草』にはそんな鬱積した感情が此処彼処から滲み出ているのだ。漱石はこの作品を発表後、『三四郎』『それから』『門』を経て、自然界の中で生きる人間の存在意義を問う深遠な後期へと遷移していく。その意味では本書が一つの出発点と言えるだろう。

『二百十日・野分』 (新潮文庫) 夏目 漱石『二百十日・野分』(にひゃくとおか・のわき) (新潮文庫) 夏目 漱石 明治39年~40年発表


「二百十日」「野分」。最近はあまり使われなくなった言葉だ。辞書によると「二百十日(にひゃくとうか)」とは「雑節のひとつで、立春から数えて210日目、9月1日頃。台風の時期のころ」、「野分(のわき)」は「秋から冬にかけて吹く台風。二百十日・二百二十日前後に吹く。野の草を風が強く吹き分ける意」とある。いずれも残暑厳しい9月上旬頃に襲来する暴風雨や荒々しい天候を指す日本独特の季節語だ。

漱石作品のタイトルには深い意味を成さないものもあるが、本書に収められている『二百十日』と『野分』の2編はどうであろう。2作とも漱石39歳の時、名作『草枕』のすぐ後の1906年10月から1907年1月の間に発表している。デビューから1年を経て、漱石が「非人情と人情の世界」について思索をめぐらせていた時期である。本書2編の題名からは思想をいっそう深化させていく漱石の勁烈な決意を感じるのだ。

『二百十日』は、阿蘇の温泉場旅行に来た豆腐屋の圭さんと友人の碌さんの軽妙なやり取りを描く。華族や金持ちが跋扈する世の中に憤慨する圭さんは二言目には「革命を起こさなければいかん」と吠えている。引きずられるように話を合わせる碌さんだが実のところそこまで強くは思っていない。その温度差が滑稽である。雄大な裾野が広がる阿蘇の景色や時間が止まったかのような湯治場の旅館、外の世界を知らないおっとりとした女中、全ての時間がゆったりと流れている。『草枕』と同様に非人情な世界を憂う青年が主人公なのだが、本書の場合はユーモア溢れる、どこか珍道中のような感じの作品となっている。漱石の旧制五高赴任時代を想起させる飄逸な雰囲気がいい。

他方の『野分』は打って変わってずいぶん烈しい。主な登場人物は、高尚な理念を持つものの売れない文学者の白井道也、学卒後に文学を志すが貧しい生活を送る高柳周作、そして高柳の友人で新進の文学者ともてはやされている富豪の中野輝一などだ。明治維新から40年余りが経ち、日本は物質的には徐々に近代社会の仲間入りを果たしつつあったが、精神的な面では相も変わらず金持ち層や権威ある華族が優先される付属物重視の不公正な社会だった。そんな人間の上っ面だけを見て人格を重んじようとしない社会的風潮や時勢に流されてばかりの未熟な文壇に対して漱石は烈しい憤りを見せる。

各々が置かれている艱苦の立場はまさに明治中期の日本の縮図である。漱石は本書を著すにあたって「いやしくも文学を以て生命とするものならば単に美というだけでは満足が出来ない。丁度維新の当士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だろうと思う」「あんなのばかりが文学者ではつまらない(中略)命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい文学をやって見たい。」と述べ、主人公の白井道也に現代における維新の志士の役目を担わせた。

道也が大衆に向かって演説をする場面がある。その言葉が全てを物語る。会場の若き文学青年に対して「過去を未来に送り込むものを旧派、未来を過去より救うものを新派だ」「理想のあるものは歩くべき道を知っている」と説き、そして「社会は修羅場である。文明の社会は血を見ぬ修羅場である。」と熱弁をふるう。現代の日本を牛耳る旧態依然とした権力や階級を打破する事は容易ではないが、過去も未来も気にせず自己を歩むべき道を発展させよ、それが君たち若者が背負った公的な使命なのだと主張するのである。道也が社会から是認された瞬間だった。

漱石の狙い通り本書は文学を志す若き青年にインパクトを与えた。文学者紅野敏郎の解説によると、志賀直哉や細川護立、武者小路実篤ら当時20代の青年は、学習院時代、授業中に『野分』を回し読みし、感銘を受けて、文学で生きていく事を決意したとある。白井道也はこう云っていた。「諸君のどれ程に剛健なるかは、わたしには分からん。諸君自身にも知れぬ。只天下後世が証拠だてるのみである。」「諸君は諸君の事業そのものに由って伝えられねばならぬ。」と。漱石が命を懸けた言葉が青年の心を動かしたのである。そして本書は今も伝えられている。

『草枕』 (新潮文庫) 夏目 漱石『草枕』(新潮文庫) 夏目 漱石 1906年(明治39年)

漱石は、1905年(明治38年)に正岡子規の弟子であった高浜虚子に勧められて『吾輩は猫である』を書いて以降、プロの小説家としてのスタイルを模索するかの如く様々な系統の作品を試みている。江戸寄席を思わせる諧謔文学の『我輩・・』や『坊っちゃん』、近代ヨーロッパを舞台に情緒的甘美を描いた『幻影の盾』」『薤露行』、旅行記ともいえる『倫敦塔』などで、『草枕』もその一つだ。

本書は「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」の有名な冒頭で始まる漱石の初期作で、せせこましい浮き世を疎んじて、世間離れた山奥の温泉へ逃避した主人公の青年画家と、投宿先の才気溢れる魅力的な次女那美やご隠居、僧侶との出会いを絵画的情緒をもって描く。

青年画家は温泉に向かう山道で「喜びの深きとき憂愈深く、楽しみの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ」と苦悩を漏らす。これは恐らく当時の漱石の心情そのものだろう。ロンドン留学で苦悩した彼にとって、愛とか正義とか権利、主張に積極的に首を突っ込み、苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする西洋的な社会は実に疎ましく、むしろ中国の詩人陶淵明や王維らの「社会のわずらわしさを脱した心境と自然への賛美」をうたう東洋思想に拠りどころを求めつつあった。

逗留中、主人公は俗世に流されそうになる自分を戒めるように「非人情、非人情」と呟く。「非人情」とは「義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと」。彼はそのために山奥の温泉まで来たのである。しかし突然と男風呂に入ってきたり、急に振り袖姿になって目の前に登場したり突飛な行動を取る奈美に対して、最初は戸惑いつつも、徐々に恋愛感情を抱き始める。観梅寺の坊さんや馬子の源さんとの何気ない会話の中にも安堵の心が見受けられるのである。以前住んでいた世界とは違った穏やかで素朴な「人情」が彼の心を融解していくのだった。

「夏目がどうやら発狂したらしい」と噂された留学先のロンドンから帰国して3年。二松學舍時代に無我夢中で学んだ漢籍を礎とする東洋的情緒やシェイクスピアやウィリアム・ワーズワースなどイギリス文学への憧憬とロンドン留学時代に抱いたヨーロッパ的個人主義(エゴイズム)への違和感が混淆していた漱石は、本書で「余裕は画に於て、詩に於て、もしくは文章に於て、必須の条件である」と、後の「余裕派」と言われるきっかけともなった人生に対して余裕を持って望む生き方、主義を目指した。本書は漱石の作品が人間の深淵描写に踏み込んでいく第一歩となったのである。

私たちはこの世で生まれてきた以上、多くの人と交わりながら生きて行かざるを得ない。一人では生きていく事ができないのである。漱石が忌み嫌った主義主張の強い西洋的観念の中で生きていくことも仏語の利他精神にみられる自身より他人の幸福を願う東洋的観念の生き方も、源を辿っていくと、環境は違えども、人を愛する感情や人間の自然な心情で形成される社会へと結びつく。つまり世の中とは私たち人間そのものなのである。

■熊本県玉名市「漱石・草枕の里」 http://www.kusamakura.jp/

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