『北条氏と鎌倉幕府』 (講談社選書メチエ) 細川 重男『北条氏と鎌倉幕府』 (講談社選書メチエ) 細川 重男

北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか。なぜ鎌倉武士たちはあれほどに抗争を繰り返したのか。本書は『鎌倉政権得宗専制論』『鎌倉幕府の滅亡』『頼朝の武士団』などで一貫して日本中世史を論じてきた歴史学者の細川重男が、頼朝の逝去後、およそ130年に渡って鎌倉幕府の実権を握った北条氏独自の政治構造について考察。九代続いた北条の中でも特に二人のキーマン、承久の乱で後鳥羽上皇らを配流した北条義時と蒙古帝国の襲来を撃退した北条時宗に光を当てる。

「系譜が正確に伝わるような家」ではなかった北条氏が躍進するきっかけとなったのは、北条政子頼朝と結婚したことが大きな理由なのだが、当時平家側にいた父北条時政にとって源氏棟梁の嫡男と娘の結婚は一族取り潰しに繋がり兼ねない大問題であった。しかし平家政権に雲行きの怪しさを感じていたのか、娘の熱意にほだされたのか、源氏挙兵の後見人として大一番の勝負に賭けた。結果は周知の通りで、鎌倉幕府の誕生に大きく貢献をした。

北条家は頼朝死後も政治の中心に位置した。2代目北条義時は梶原、比企、秩父、和田ら関東豪族の中で起きた権力闘争に打ち勝ち、さらに勢いをかって承久の乱で天皇を制圧、有史、蘇我馬子事件以来といわれる天皇処罰を断行した。驚天動地の事件である。この勝利が義時の評価を決定づけ、頼朝と並ぶ「武家政権の創始者」という権威を手にすることになる。

しかし北条氏は源氏嫡流でもなければ皇族血統でもない。戦だけで頂上に登りつめた豪族である。鎌倉幕府支配には社会が納得する理論的根拠が必要であった。制圧した王朝とのバランスもある。そこで北条家は『日本書紀』で数代の主君に仕えた伝説的人物として知られる武内宿禰と義時が似通っていることに目を付け神格化を試みた。義時は宿禰の再来である、北条家は執権に相応しいと、北条家は「苦しいツジツマ合わせ」で宿禰再来神話を作ったと著者は読む。

そのような経緯から「得宗」は既成事実化していった。「得宗」の由来は「北条義時の法号を徳宗といったことから」と言われているが、著者は法号などではなく、禅に帰依していた時頼の追号から来ているものであり、北条家家督の継承に正当性を持たせるために時頼が用いたのではないかと推測する。いずれにしても北条執権は「得宗」を最大限に利用して専制体制を敷いた。特に時宗は異国の襲来という国家的大事件を乗り切るため、「将軍権力代行者」として徹底的な独裁政治をおこなったのである。

「頼朝没後に始まる熾烈な御家人間抗争は剥き出しの権力闘争だった」。初めての武家政権で初めての関東政治は暗中模索の連続だった。創業家の源氏はわずか30年、3代で断絶した。以降は好むと好まざると北条らが進めるしかなかった。前述の通り、北条家は伊豆の弱小豪族である。幕府を統制していくには例えツジツマ合わせと言われようとも明確な指針が必要であった。それは鎌倉将軍は創始者頼朝の直系であること、北条家「得宗」とは北条義時の後継者であることである。そして執権を担う「北条氏得宗」とは鎌倉将軍の「御後見」として天下を支配することだった。

北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか。それは「北条家は将軍の御後見なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである」と著者は答える。北条家自身を正当化させた「得宗」の論理。それが鎌倉の政治構造であった。