津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

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『蒙古の襲来』 (河出文庫) 海音寺 潮五郎 『蒙古の襲来』 (河出文庫) 海音寺 潮五郎 


北条時宗が執権を握っていた鎌倉時代中後期。日本は大陸を支配していたモンゴル帝国から二度にわたって襲来を受けた。1274年の文永の役、1281年の弘安の役である。世界の文化、経済の中心であった宋や高麗を滅ぼし日の出の勢いだったクビライにとって、次の標的に黄金の国ジパングと呼ばれた隣国日本を狙うのは必然であり、北条執権にとっても「元寇」は日本が滅ぼされるか否か、生死を懸けた重要な事件であった。

本書は歴史小説の大家・海音寺潮五郎が名作『蒙古来る』の解説資料として書いたものである。モンゴル軍が日本を狙ったのはなぜなのか。どのような経緯で攻め入って来たのか、なぜ撤退したのか。著者は当時の『吾妻鏡』『増鏡』『北条九代記』や日蓮の『立正安国論』などはもちろん『伏敵篇』『東寺文書』『八幡愚童記』や『高麗列伝』『東国通鑑』モンゴルの史書『元史』、『元史類篇』やドーソンの『蒙古史』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』などから独自の見解でジンギスカン、クビライ時代を導き出していく。

「われわれの書く歴史は面白くなければならない。基礎知識なしに読んでも読み続けて行ける平易さがなければならない」と著者自身が宣言しているとおり、彼の作品の特徴(面白さ)は膨大な資料文献を読み解き、史実と自身の主観をバランスよく織り交ぜていくところにあると思うのだが、本書においてもそれは期待を裏切られることはない。

クビライが日本遠征に二度失敗し、三度目を計画しながらもなかなか実行出来なかった理由として宿敵カイズの存在があったらしいこと、その後一転してビルマ(現ミャンマー)、ジャワなど南洋一帯に向かったことから、征服地域はどこでも良かったのではないかと思われることなどの推測は興味をそそられる。アジア中部からヨーロッパ東端を征服しつくしたモンゴルの欲望にただ畏怖を覚えるばかりである。

著者は元寇の事象だけではなく当時の時代背景考証にもほぼ半分を費やす。鎌倉中期という北条執権、天皇、将軍、貴族が入り乱れた時代だ。キーパーソンとして上げられるのは4代執権経時、第5代執権時頼、8代執権時宗、日蓮道元、第4代将軍藤原頼経、6代将軍宗尊親王などだろう。

例えば時頼については「彼の本質は仁慈だけではない。おそるべきマキャヴェリアンでもあった」、日蓮を「見かけによらず政治家的なところもあった」、時宗については「あまりにも短命だ。蒙古問題の処理のために身心をすりへらした。蒙古問題処理のために生まれてきたような人だった」と人物評も面白い。さらにその海音寺節は神道、和歌、漢文学、建築などの宗教観、文化觀にまで拡がっていく。この脱線的、寄り道的なところが海音寺歴史ファンには堪えられないのだろう。

蒙古の襲来によって日本は大きく変わった。著者はそのポイントとして、一つは暴風雨のおかげで侵略を救われたことによる「神国思想の勃興」、二つ目は逆に海外へ攻め入り始めた「倭寇」、三つ目が「幕府権力の増大」をあげる。

戦争とは古今東西問わずいつの時代も国家権力の増大に繋がる。鎌倉時代も同様に幸か不幸か外国からの侵略と防衛を通して、北条政権はますます権力を我がものにした。しかし「御家人の利益を保護することができなくなった時」に「全国の御家人のほとんど全部が幕府に離反」して、鎌倉幕府は滅んだ。

「利の上に成立した道徳だ。利が尽きれば風の前の塵のように吹き散るのは当然のことである。」と著者はいう。そうご存じの通り、これは平家物語の序文である。栄枯盛衰、権力は滅びる。それは巧みに権勢を築いてきた北条氏といえども例外ではなかった。

『時宗』 (全4巻) (講談社文庫) 高橋 克彦頼朝亡き後、凄惨な内部闘争に終止符を打ち、武家政治を築いた北条時頼、時宗親子。北条氏が目指した国づくりとは如何なるものであったのか。本書は『火怨』や『炎立つ』などで古代東北の歴史を切り開いてきた高橋克彦が、時頼執権の誕生から蒙古の来襲、時宗の死去までの40年間を描く壮大な人間ドラマだ。文庫本にして全4巻1,300ページ、2001年NHK大河ドラマ「北条時宗」原作にもなった大作である。

兄経時から引き継いだ政権は身内の権力争いが渦巻いていた。放置していては政権の安定もままならない。時頼は禍となる種を一つずつ取り除いていく。将軍頼嗣を追放し、身内の名越や三浦を滅ぼし、足利を遠ざけ、九条道家を謀殺する。そして北条家の基盤を確固たるものにしていった。時頼と側近の間で次々に練られる謀略談義は実に冷酷で湿っぽい。常に敵の追い落としを企てているように見える。善政執権と言われた時頼の冷徹な一面が伺える。

「念仏宗、禅宗を排斥せよ」と政権に揺さぶりをかけて来る宗教家日蓮も時頼にとって頭痛の種だった。外敵の侵略を予言した日蓮の「立正安国論」を読んだ時頼は、「正論も多々ある」とその存在を認めながらも、幕府の蒙古戦略の差し支えになると逮捕を命じる。しかしその予想は現実のものになろうとしていた。その当時、蒙古軍は大国宋や高麗を制圧し、次の狙いを日本に定めているのは明らかだったのである。

「十年以上執権の座にありながら結局何もしていない」と慚愧の思いでいた時頼。残された時間も少なかったのだろう。息子の時宗に蒙古の恐ろしさと日本を防ぐ戦略を託した。北条の目指す国づくりについても「武士とは人のために死ねる者だ。しかし今はその国が出来上がっていない。だから皆が命を懸けても守らねばと思うような国を作らなければならない」と時宗に命じるのだった。

後半の時宗執権時代のクライマックスは日本史上最大の国難と言われた蒙古の来襲であろう。九州に押し寄せた蒙古軍は5万とも10万とも言われる。著者は蒙古戦の主役に、史実では時宗に征伐されたとされる兄時輔を「実は死んだ振りをして宋に渡っていた」と設定、謝国明の息子太郎とともに縦横無尽の活躍をさせている。両軍合わせて何万人も亡くなった凄まじい戦いの末に国を守った英雄として描いた。

本書は激動の鎌倉時代を生き、国難に立ち向かった人間たちの熱いドラマだ。弟を立てて奔走する時輔の志に胸が熱くなる。著者は北条親子の生き様を通して国家愛、家族愛、兄弟愛を伝えたかったのだろう。脇を固める豪傑な安達泰盛、時宗、時輔を支える謝太郎、命を懸けて信仰を説く日蓮、登場する人間はみな志高く快活で清々しい。

劇作家のさいとう・たかをは本書を「すべて劇画的で、どんどん画面が浮かんでくる。それもダイナミックに。」と評した。著者高橋は「志。これだけは必ず描いている」と答えた。そう男達の生き様なのである。最後の一行に心を揺さぶられる。まさに高橋克彦の代表作といえよう。

『北条氏と鎌倉幕府』 (講談社選書メチエ) 細川 重男『北条氏と鎌倉幕府』 (講談社選書メチエ) 細川 重男

北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか。なぜ鎌倉武士たちはあれほどに抗争を繰り返したのか。本書は『鎌倉政権得宗専制論』『鎌倉幕府の滅亡』『頼朝の武士団』などで一貫して日本中世史を論じてきた歴史学者の細川重男が、頼朝の逝去後、およそ130年に渡って鎌倉幕府の実権を握った北条氏独自の政治構造について考察。九代続いた北条の中でも特に二人のキーマン、承久の乱で後鳥羽上皇らを配流した北条義時と蒙古帝国の襲来を撃退した北条時宗に光を当てる。

「系譜が正確に伝わるような家」ではなかった北条氏が躍進するきっかけとなったのは、北条政子頼朝と結婚したことが大きな理由なのだが、当時平家側にいた父北条時政にとって源氏棟梁の嫡男と娘の結婚は一族取り潰しに繋がり兼ねない大問題であった。しかし平家政権に雲行きの怪しさを感じていたのか、娘の熱意にほだされたのか、源氏挙兵の後見人として大一番の勝負に賭けた。結果は周知の通りで、鎌倉幕府の誕生に大きく貢献をした。

北条家は頼朝死後も政治の中心に位置した。2代目北条義時は梶原、比企、秩父、和田ら関東豪族の中で起きた権力闘争に打ち勝ち、さらに勢いをかって承久の乱で天皇を制圧、有史、蘇我馬子事件以来といわれる天皇処罰を断行した。驚天動地の事件である。この勝利が義時の評価を決定づけ、頼朝と並ぶ「武家政権の創始者」という権威を手にすることになる。

しかし北条氏は源氏嫡流でもなければ皇族血統でもない。戦だけで頂上に登りつめた豪族である。鎌倉幕府支配には社会が納得する理論的根拠が必要であった。制圧した王朝とのバランスもある。そこで北条家は『日本書紀』で数代の主君に仕えた伝説的人物として知られる武内宿禰と義時が似通っていることに目を付け神格化を試みた。義時は宿禰の再来である、北条家は執権に相応しいと、北条家は「苦しいツジツマ合わせ」で宿禰再来神話を作ったと著者は読む。

そのような経緯から「得宗」は既成事実化していった。「得宗」の由来は「北条義時の法号を徳宗といったことから」と言われているが、著者は法号などではなく、禅に帰依していた時頼の追号から来ているものであり、北条家家督の継承に正当性を持たせるために時頼が用いたのではないかと推測する。いずれにしても北条執権は「得宗」を最大限に利用して専制体制を敷いた。特に時宗は異国の襲来という国家的大事件を乗り切るため、「将軍権力代行者」として徹底的な独裁政治をおこなったのである。

「頼朝没後に始まる熾烈な御家人間抗争は剥き出しの権力闘争だった」。初めての武家政権で初めての関東政治は暗中模索の連続だった。創業家の源氏はわずか30年、3代で断絶した。以降は好むと好まざると北条らが進めるしかなかった。前述の通り、北条家は伊豆の弱小豪族である。幕府を統制していくには例えツジツマ合わせと言われようとも明確な指針が必要であった。それは鎌倉将軍は創始者頼朝の直系であること、北条家「得宗」とは北条義時の後継者であることである。そして執権を担う「北条氏得宗」とは鎌倉将軍の「御後見」として天下を支配することだった。

北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか。それは「北条家は将軍の御後見なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである」と著者は答える。北条家自身を正当化させた「得宗」の論理。それが鎌倉の政治構造であった。

『坑夫』 (新潮文庫) 夏目 漱石『坑夫』 (新潮文庫) 夏目 漱石 1908年(明治41年)朝日新聞に連載開始

かつて日本は世界有数の銅産出国であった。明治政府の富国強兵策に伴い外国から最新技術を導入した各鉱山は、技術水準が大幅に向上する。特に足尾銅山は全国の産出量の1/4を占める日本最大の鉱山に成長、一万人以上の坑夫雇用を生み出す基幹産業に変遷した。

しかしその一方で、急激な近代化はさまざまな歪みを露呈する。1890年頃には鉱毒流出によって付近の農地一帯を汚染させた足尾鉱毒公害事件を引き起こし、1907年には過酷な環境に不満を爆発させた坑夫が施設をダイナマイトで破壊、放火した足尾暴動事件が起きた。長時間労働と低賃金、後を絶たない事故と犠牲者・・・炭坑の厳しい労働環境は大きな社会問題となっていた。

本書『坑夫』はその足尾銅山で労働した青年の体験記風小説である。漱石の小説は自身の経験が基になっていることが多く、昔炭鉱でアルバイトを?と思ってしまうのだが、今回は経緯が少し異なるようだ。その辺は「『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉」が詳しいので譲るとして、簡単にまとめると以下の通りである。

暴動事件の起きた1907年の秋に、漱石の元へ一人の若い男が訪れて「自分の身の上に斯ういふ材料があるが小説に書いて下さらんか。」と足尾銅山での坑夫の経験話を持ち出した。漱石は無論断ったのだが、しばらくしてから、朝日新聞に1908年1月から連載予定だった島崎藤村の『春』が執筆遅れで延期になり、その穴埋めを自身がしなければならなくなった。

困った漱石はいつぞやの炭鉱ネタを思い出した。タイムリーであるし、書き方によっては面白くなるだろうと思ったのかどうかはわからない。その男に「坑夫の生活のところだけを材料にもらいたいがさしつかえあるまいか」と打診したところ「いっこうさしつかえない」と許しを得て、新聞に書き出したのが『坑夫』らしい。しかも30回位の積もりが長くなって90余回になった。作家も新聞社も原案者もみんなどこかのんびりした牧歌的な時代であった。

本書は裕福な家庭に生まれた19才の青年が主人公である。許嫁とは別の女性を愛したことから両親と衝突を起こし、自棄になって家を飛び出してきた。あてどもなく落ちてきた旅先で「儲かるんだが働く気はないか」と声を掛けてきた手配師の誘いに乗って「坑夫」になる事を決意する。汽車に乗り(恐らくカバー装画は当時の足尾鉄道だと思われる)、山中を歩き、ようやく銅山に辿り着いた。しかしそこは浮き世では見たことのない別世界だった。

まわりを見渡すと、真っ黒く光った獰猛で屈強な男や今にも死にそうな痩せ衰えた男ばかりで、書生風の男などいやしない。新入りの青年を見つけるなり男たちは「お前みたいなやせっぽちは役に立たねぇ」「帰れ」「帰れ」と侮辱し、嘲笑する。十四銭五厘の南京米膳は壁土のようでまずかった。薄汚く湿っぽい蒲団で寝ると南京虫が出て来て身体を何カ所も刺された。嘲笑う男の声が聞こえてくる。青年は泣きたくなった。そして心の中で「無教育な下等め。畜生奴」と思い切り彼らを見下すことで自分の存在を何とか保とうとした。

「書生さんで此処へ来て十日と辛抱したものあ、有りませんぜ」。初さんという男に連れられて入ったシキ(炭坑の中)は恐怖だった。段々に道が細くなって這って進まなければ抜けられない。上からは水が落ちてくる。すのこと呼ばれる鉱を放り込む深い穴はまるで地獄釜のようで落ちれば絶対に上がってこれない。あちこちでダイナマイトの爆破音が響く。さらに梯子を下っていくと地獄の底に出た。腰の高さまで水に浸かっている。ここで1日3交代、毎日8時間穴を掘ると聞かされ、主人公はまたも涙が出て来てしまう。そして「みんなは元気だろうか」と東京を思い出すのだった。

物語は大きなクライマックスも感動的なシーンも無く何となく終わる。漱石によくあるパターンだ。本書では青年の心情描写に相当数のページが割かれている。家出をした若き主人公の葛藤であり苦悩である。なぜ世の中はこんなにも難解なのだ、なぜ人間はこんなにも解きがたいのか、自分は正しかったのか、間違っていたのか。死ぬつもりだった主人公は俗世の全てを忘れられると考えこの別世界に入ってきた。しかし地獄の此処も単純な世界ではなかった。有象無象の獰猛な輩が歩き回っている。下等な社会だと見下していたが、此処にも此処の世界がある。結局、青年は5ヶ月滞在した。そして少しばかり成長して帰京したのである。

朝日新聞入社した漱石は、『虞美人草』に続く二作目として『坑夫』を書いた。前述の通り、急遽、藤村の代役を引き受けることになったため、構想時間はほとんど無かったと想像される。しかも他人の経験を基にした題材という難しい中でのスタートだった。未知の部分が多かったはず。本書では『虞美人草』にも似た人間関係の構図を採用している。これは半年後から連載が始まる『三四郎』以降の青春三部作に繋がっていく構図である。いわば漱石の作品基盤となっていくものだ。そう考えると異色と言われる本書も重要な試みであった。

『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら』 (文春文庫) 永井 路子

永井路子が鎌倉時代の武士達に渦巻く怨嗟を描いた『炎環』で直木賞を受賞したのは1964年(昭和39)のこと。当時、小学館の女性編集者だった永井は、歴史の持つ運命の儚さを「一台の馬車につけられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引っ張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめきあい傷つけ合ううちに、いつの間にか流れが変えられていく」という言葉に例え、時代に翻弄され消えていく人間たちを描いた。

それから半世紀。常に第一線で活躍してきた著者は「人生を終えようとするとき、その答えの一部として、十九世紀後半を選んだ」と本書で幕末維新史を取りあげた。徳川家康が作り上げた十七世紀の奇跡ともいうべき豪腕緻密な社会は、300年を経て「指一本で倒せるところまで朽ちかかっていた」。次の権力は誰が握るのか。徳川家、公家、幕臣、薩長倒幕派、佐幕派が右へ左へ動き回る。十九世紀後半の日本は「野望が渦巻き、権力を廻ってすさまじい相剋が展開した」時代だった。

その中でも異色の存在だったのが公家出身の岩倉だ。権謀術数に長けた策略家などと言われてはいるが、もともとは久我家の庶流で家録わずか百五十石の公家に過ぎない。大久保西郷木戸のような強大な武力も持たない。普通に考えれば政治の表舞台に立つことは難しい人間なのだ。そんな岩倉がなぜ維新の中心人物として功成り名を遂げる事が出来たのか。そもそも大義となった「尊皇攘夷」「王制復古」とはどういう意味なのか。本書は維新固有の言葉の意味を剥きながら、明治という時代を冷静にみつめなおしていく。2008年には第50回毎日芸術賞を受賞している。

しがない下級公家だった彼がのし上がったきっかけとは。著者はその理由として、一つは当時、強大な力を持っていた公家の関白鷹司政通に取り入ったこと、他は実妹堀河紀子が孝明天皇の側近となったことを挙げる。特に天皇に寵愛され二人の子を産んだ紀子の力は大きかった。もちろんそこに岩倉特有の野心と策略があったことは間違いないだろう。彼は「公家」と「天皇」の間を巧みに泳ぎながら、少しずつ階段を上がっていく。

さらに時代も彼に味方した。革命には大義が必要だ。大義とは「権威」、つまり天皇の賛同である。「日本の歴史はこれまで権威と権力がワンセットになっていた」。藤原、平氏、北条、徳川然り、天皇の御旗の元、時の執政が権力を振るっていたのだ。だから薩摩も長州も幕府もみな天皇への接近を試みた。しかしうまくいかない。そこで「権威」「権力」双方にネットワークを持った岩倉が輝き出す。公武合体論の推進など多くの意見書を書き続け存在感を高めていった。

しかし岩倉は失脚、蟄居を命じられる。1862年から1867年の5年にも及んだ。諦めずに坂本、中岡、大久保らと連絡を取り合い、京の山奥に閉じこもったまま政治勢力の操作に力を注いだ。彼の暗躍する策謀家のイメージはこういったところから来ているのだ。

時代は大きく動きはじめた。1867年10月、慶喜は大政奉還を発表する。その後の小御所会議では非難渦巻く中、慶喜を追放、そして王制復古、摂政制廃止を決定。300年続いた江戸幕府を完全に終わらせたのである。そして平安時代から続いていた摂政・関白制度も吹き飛ばした。弱小公家出身である岩倉に取って五摂家と呼ばれる貴族に対する怨念そのものだったのである。

以降は周知の通りである。版籍奉還と廃藩置県を断行し、自ら使節団長となって世界各国を訪問、最後は五千石の右大臣にまで登りつめた。1883年(明治16年)7月、食道ガンで逝去。59才だった。

生前、岩倉は「公明正大に正論を展開するのが上計だが、これは労多くして功少ない。例えば屏風を真直に立てれば倒れるようなものだ。・・・少し屈折させれば立つように、権謀術数を駆使すればいい」と嘯いた。何とも岩倉らしい。彼の行動原理を物語る台詞である。

本書にはいわゆる立身出世話はあまり書かれていない。著者は「歴史小説とは、歴史表現としての人間を描くこと」であり、岩倉という人間を「全く別の視点から書いた」と述べる。確かに永井の作品を見ると、英雄の周囲で時代に翻弄された悲運を描いたものが多い。この世には光もあれば陰もある。いや陰があるからこそ光が輝く。同じように脚光を浴びた人間の陰には無名の生活で終わった人間がいる。いや大半の人がそうだろう。

「一人の英雄で世界が変わるほど歴史とは単純ではない」。「それぞれがモザイクのように嵌め込まれ、かかわりあって時空を支えつつやがて消えていく」。私たち一人一人は好むと好まざると歴史の中の一コマを演じている。歴史という大きな流れの中で存在し生きているのだ。「それぞれの存在は微少ではあるが、まぎれもなくその中に歴史は息づいている」。それは著者が50年の作家人生を通して出した結論だった。

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