『戊辰戦争―敗者の明治維新』 (中公新書) 佐々木 克薩長倒幕派による国家樹立を確固たるものにした戊辰戦争。1868年(慶応4)戊辰の年の正月に始まった鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜らの旧幕府派に勝利し、勢いに乗った維新政府軍は、その2ヶ月後に西郷・勝会談で江戸城明け渡しに合意、7月には大村益次郎指揮の元で上野彰義隊を壊滅。その後、奥羽越列藩同盟を結成して抵抗する北越東北へ進軍し、長岡藩を撃破、最大の決戦となった会津戦争で会津藩を制圧。翌年5月には箱館五稜郭へ逃走した榎本武揚軍を鎮圧し、内戦は終了した。

戦争が起きる理由は様々だが、一般的には政治的、経済的による衝突であることが多い。今回の場合、天皇を中心とした中央集権体制並びに薩長中心の政権を目指す維新政府軍と旧幕府派による「どちらが新しい国の主導権を取るか」の権力闘争であった。結果は戦争経験に富み近代武力を用いた維新軍の圧倒的勝利に終わり、新しい国家が誕生した。絶大な権限を掌握した薩長藩は以降、ドラスティックに版籍奉還・廃藩置県などの近代化改革を進めていくのである。

「これまで敗者を分析したものはあるが、戊辰戦争全体を敗者の側から記述したものは、きわめて少ない」。自身の実家が戊辰の舞台となった秋田県出身の著者佐々木克は、世の脚光とは逆の立場から本書執筆にとりかかった。1976年(昭和51年)に上梓された『戊辰戦争』は、維新文献の大家原口清や石井孝の書、「復古記」「維新史」や未公開の「宮島誠一郎戊辰日記」などの膨大な資料を丹念に読み込み、説得力ある数字と詳細な日付を提示しながら、全国で起きた戦争を追いかける。

「東北は決して戦争を望んでいた訳ではない」。最後まで抵抗した会津藩容保と桑名藩定敬の松平兄弟、長岡藩家老河井継之助の行動や奥羽越列藩同盟の設立趣意書を見ても、誰もこのままの徳川幕府で良いとは思っていないことがわかる。そもそも当の慶喜に戦意が無い。むしろ彼らは薩長の専横的なやり方に反対し、公儀政体による新しい諸藩連合政権を求めたのではないか。確かに東北諸藩が作成した新国家プランは稚拙で実現性の低いものであったが、かといって彼らが思想を持っていけない訳ではなく、ましてや朝廷を敵視したものでは絶対になかった。これでは「勝てば官軍、負ければ賊軍」ではないか。そう著者は言う。

時勢を直視すると、徳川300年政治の腐敗がひどかったことや人民はもちろん諸外国もが政治の刷新を求めていたことは事実であり、日和見の藩がほとんどの中で薩長だけが自らその先頭に立ち、長州征伐や安政の大獄で自藩に多数の犠牲者を出しながらも幕府と屈せずに戦ってきたことも事実である。薩長はこの戦争でも「少しでも気を許せば維新は成立しない」「負ければ自藩が壊滅させられる」と必死だったであろう。だから鋼鉄の意志で徹底的に抵抗勢力を潰しにかかった事も理解できる。むしろ薩長がいなければ維新は成し得なかったし、日本の近代化は何十年も遅れたであろう。

誤解を恐れずに言えば戊辰戦争の目的は維新軍も旧幕軍も大同小異であったと思う。しかしちょっとした構想や立場の相違がどんどん広がって、ボタンを掛けるのが難しくなってしまった。そこに歴史の儚さがある。

「戦争があり、勝者と敗者に決着がついてしまった以上、敗者の側が勝者によってなんらかの形で裁かれるのは歴史の必然で仕方のないことである」「戦争主体が武士階級であってみれば、敗れた者が敗残の人生をたどるのは、武士としては当然すぎるほどの運命」。休戦に向けて奔走した河井継之助や勝海舟、山岡鉄舟、榎本武揚らの努力が実っていれば・・・。そうすれば同じ日本人同士で殺し合う事も無かったと著者は悔やむ。

この戦争では多くの人が亡くなった。徒手空拳で銃に立ち向かい散っていった無数の無名藩士、会津落城を聞いて自害した西郷頼母の妻と子供、その家族達や十代の青年で構成された白虎隊、長岡戦争で敗れ会津に向かう途中に死んだ河井継之助、農民の出でありながら箱館戦争で武士より武士らしく勇敢に戦死したといわれる土方歳三、領地替えで極寒の僻地で餓死した会津農夫。戦後、東北は長年にわたって物理的、心理的な負の遺産に苦しんだ。

これらの非業の死をただ「欧米諸国に肩を並べようと近代化を目指した中で起こった時代のうねり」の一言で片付けるには余りにも切なく悲しい。そして余りにも無責任だろう。一人一人の自由と平等が保障された国家、公正で公平な競争が尊ばれる社会。私たちが暮らすこの恵まれた社会は、わずか140年前に起こった変革と多くの犠牲者の上に成り立っている。そのことを忘れてはならないだろう。