『平の将門』 (吉川英治歴史時代文庫・講談社)武士として初めて世を制した平清盛の時代から遡ること約200年ほど前。関東全土に凄まじい嵐を巻き起こした一人の男がいた。平将門である。将門は桓武天皇の孫に当たる平高望を祖父に持ち、「桓武平氏」の一門として「坂東平氏」と呼ばれる名門豪族の跡取りなのだ。

将門の生涯はまるで烈しい台風の様に波瀾万丈だった。下総(現在の千葉県北部・茨城県南部のあたり)の地方豪族であった平良持(よしもち)の長男として生まれた将門は、父の死後、存在を疎まれた親戚縁者の画策によって京都の右大臣藤原忠平の元へ奉公に出される。貴族から「板東の田舎者」と蔑まれるなど、決して恵まれた生活では無かったが、故郷の家の復興だけを夢見て日々の精進に務めていた。ちなみに後年、将門が暴れた「承平天慶の乱」と同時期に、伊予の海賊を率いて瀬戸内で暴れ回った藤原純友(すみとも)と出会ったのもこの頃であった。

十数年後、下総に帰郷した将門は愕然とする。彼のいない間に父の遺産や領地のほとんどを叔父の平国香らの親族に取られてしまっていた。しかし彼はあきらめず持ち前の純粋で陽性な性格で、領地の農民たちとともに畑を耕し、民のための良政をおこない、少しずつ領地を豊かにしていく。民から慕われていた父良持の時代に戻していくのだ。

だが周囲との怨恨の根は深かった。将門の復興を妬んだ叔父ら親族との戦が始まり、隣領からは源護ら板東源氏が襲いかかって来た。そんな争いの中愛妻桔梗と子供が殺害される事件が起きた。彼は怒り狂いこれまで溜まっていた憎悪を爆発させ、何万という自国の兵とともに板東一帯に攻め入っていく。世に言う「平将門の乱」の始まりである。

歴史上の教科書にも見られるように平将門は「平将門の乱」や「承平天慶の乱」の首謀者として「国家への反逆者」のイメージが強い。しかしそんな定説に疑問を持った吉川英治は、「反逆者としての歴史の刻印を除きたい気持ちもあったが、純粋で虚飾のない原始人の血を将門に見たからだ」と、本書の執筆を始める。粗野な面も多々あれど、権謀術数や曲がった事が大嫌いで、当時搾取されていた貧民や弱き人に優しい。共に泣き苦しみながら、自国の領地を実り豊かに建て直していく。これが吉川の思い描いた将門像である。

一方で、直情的な野生児だから怒りも凄まじい。本書の戦闘場面も圧巻だ。「こうなると、野獣化した猛兵は、とどまるところを知らないし、第一、将門自身が、憤怒の権化像の如きものであったから、勢い、常陸領へ越境し、野爪一帯ばかりでなく、大串、取木などの郷を焼きたて・・・・翌日も翌々日も、適地を荒らし続けた」と、自分自身を抑えきれずに全てを焼き尽くす。当時の戦はやったりやられたりのいわば、現代のケンカみたいなところもあったから、ある程度の分別ある軍将は引き際を得ているのだが、将門にはそれがない。だから大きな恨みを残す。

作家の畑山博はあとがきで「一般の民衆、とくに東国の人々は将門になんらかの気持ちを託していた。愛していたといってもいいだろう。しかし一方では時の権力が彼を逆賊ときめつける。」と将門像を検証する。そうなのである。将門はある意味、都とは遠く離れた荒野の板東平野が生んだ快男児であった。しかしその一直線で度量の大きい性格は、矮小な小役人や都人からは疎んじられた。そして時の為政者から抹殺されてしまったのである。