津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2013年02月

『道元』 (河出文庫) 和辻 哲郎

夏目漱石『門』に主人公の野中宗助が、不安な精神の拠りどころを求めて鎌倉の寺で参禅する場面がある。結局、住職から軽くいなされて帰ってくるのだが、実はこれは漱石自身の経験に基づくものらしい。円覚寺で禅を試みたが余りものにならなかった事が後述されている。漱石が当時、精神的に追い込まれていたのは周知の事実であり、その打開策として禅を求めたのだとしたら、その頃持て囃されていた西洋哲学には説明出来ない、東洋的な何かがあると感じていたのかもしれない。

禅はいつ頃からあるのだろうか。日本に初めて禅を持ち込んだのは臨済宗を興した栄西だと言われている。いまから約850年前、鎌倉時代の頃だ。栄西没後に建仁寺を継いだ弟子の明全は、道元らの若者を引き連れ、1223年(貞応二年)に入宋、当時主流となりつつあった禅を景徳寺で学ぶ。しかし明全は突然客死、残された道元は天童如浄の元で1日20時間以上の厳しい禅修行を続け、1227年(安貞元年)に帰国する。日本における新たな禅の胎動であった。

曹洞宗の開祖で、日本の思想の歴史を形づくる哲学者となった道元を紹介した本書は、「古寺巡礼」「風土」などの著書で知られる哲学者の和辻哲郎が、1962年に著した「日本精神史研究」の一編「沙門道元」が底本になっている。和辻は本書を書くにあたって「禅に門外漢の人間が道元を理解できるのか、畢竟高きもの深きものを低くし浅くするのではないか」と躊躇しながらも、絶対の真理を体得していない自分がその探究の記録、受けた感動を書くことは自然なことであると確信し、道元の思想をまとめ上げた。

全部で9章からなる本書は、著者の主旨を述べた序文から始まり、禅修行の方法とその目的、同時代の浄土宗親鸞との違い、道徳、社会、芸術問題、そして曹洞宗の真理について、「正法眼蔵随聞記」を引用しながら、道元の人格、思想を独自の解釈で考察していく。「哲学の叙述を企てつつ途中で挫折した」という曰くがあったものの、道元を日本に知らしめるきっかけとなった作品であり、道元の思想を知る上ではお薦めの入門書になっている。

道元の言うべきことは「財欲を捨てよ、異色に心を煩わすなかれ」の一言につきる。「学道の人は先づ須く貧なるべし。財おほければ必ずその志を失ふ」と、俗世を捨てて出家せよ、座禅修行に励め、全てを放擲せよという。衣食住の欲からの脱離を真理の道への必須条件としているのだ。このことは華美装飾な像や建造物、文筆詩歌などの芸術的労作に流れていた当時の仏教の否定につながる。道元は「仏法興隆にあらざるなり。たとひ草庵樹下にてもあれ、一と時の座禅をも行ぜんこそ、真の仏法興隆である」と新たな思想を説いた。

修行の方法も厳格に定められている。あらゆる我欲を捨て、仏祖の言語行履に随う「仏祖盲従」、そしてその中核として自力証入を意味する「専心打座」である。念仏宗など他力の信仰が、自己の無を悟るのにたいし、道元の道は自ら我執を捨て、真理の追究に自ら身を投じることを求める。「他力と自力」。著者はここに著しい違いがあると言う。前者は解脱を死後に置き、後者はこの生において実現使用とする。模倣には導師なくして成し得ることは出来ない。名の唱えではなく人格の継承が必要である。修行者は素材、導師は彫刻家なのである。前者は自己の救済に重心を置き、後者は仏の真理の顕現に重心を置く。真理の前に自己は無である。真理のための修行なのである。

宗教界の英傑親鸞と道元の信仰の違いも面白い。例えば人間の持つ「悪」について親鸞はいかなるものでも許し、ただ専心に仏を念じよと説いたが、一方の道元は悪か善かは大きな問題ではなく、仏法のために、仏意を自己に中に顕現せよと説く。よって悪か善か、罪人が救われたか否かはさほど関係ない。行者自身の真理追究が主だからである。この違いについて和辻は「両社は根本において一である。が、それにもかかわらず異なった特殊性をもって現れる」とその特殊性に注目する。

真理顕現には煩悩の克服が必須条件である。「戒律による力強い自己鍛錬」だ。ただしそれを全ての人に求めている訳ではない。出家した仏法の模倣者のみに求めた。だから浄土宗などの念仏宗と異なり、もともとの対象者、信徒数がそれ程多くない。この事について「信徒数が多い方がいいのでは」と弟子が問うた際、道元は「勢力や建造を以てではなく、穏やかに座禅をこそが興隆である」「衆徒の少ないことを憂う無かれ」と答えたという。彼は「帝者に親近せず、丞相と親厚ならざりし」を信条とした宋の天童如浄に影響を受けた弟子である。「世間的に仏法を広めることをもって仏法興隆とは解しなかった」のである。

時の幕府の信任が厚かったことも禅宗の大きな特徴だろう。これは第5代執権北条時頼の存在が大きい。時頼は中国に僧を派遣して瞑想的な禅を導入させ、京都、鎌倉、越前に寺院を建立、定着を図った。迫害され世を追われた法然、親鸞、日蓮とは大きな違いである。その理由について和辻は、道元が持っていた「儒教への信頼」にあるのではないかと推測する。僧の徳と俗の徳を明確に分ける儒教的な精神が武士の思想に大きな影響を与えたに違いないのであろう。

信仰における人間の見解はそれぞれ異なって当然であり、統一しようとするには議論が必要になる。つまり葛藤である。しかし道元は「この葛藤こそまさに仏法を真に伝えるものだ」と主張した。どういう意味か。一般に(禅宗含めて)宗教とは人間の葛藤を絶とうとするものであるが、道元は「葛藤をもて葛藤に嗣続することしらんや」とした。仏法とは矛盾対立を通じて展開する思想の流れであり、明確な論理を持つ法の中にこそ「真理」の会得がある。しかもその法は人から人へ伝えられるものであり、礼拝することで人格的価値の段階があがっていく。つまり「人間の努力に十分な意義を与え、絶えざる精進が人生の意義になる」。この一文に宗教家としてではない哲学者の道元を見ることが出来るのである。

『日蓮』 (山岡荘八歴史文庫)平安時代末期から鎌倉時代にかけては多くの新しい仏教宗派が誕生している。日蓮の日蓮宗や法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などである。これら新仏教の特徴は、旧来の天台宗や真言宗、南都六宗と異なり、いずれも市井の武士や農民と直接向き合いながら布教したこと、出家や学問などの苦行が不要で信仰のみを問うたことなどが挙げられる。

時代の空気と合致していた。終わりの見えない戦さや度重なる地震、飢饉、大火、伝染病が吹き荒れる中、今日を生きるのに必死であった民衆にとって頼れるものは、私利が横行闊歩していた政治ではなく、穏やかに明日の人生を包んでくれる宗教だった。人々に寄り添いながら新しい仏教は急速に広がっていくのである。

これら穏やかな宗教家の中でひときわ異彩を放つのが日蓮だろう。他宗教や政治を厳しく批判し法華経を説くその鋭利な姿勢は凄まじかった。日蓮の思想はどうやって生み出されたものなのか、世の中にいったい何を遺したのか。本書は、『徳川家康』や『伊達政宗』などで数々の歴史的英雄を取り上げてきた山岡荘八が、日蓮の幼少期から「立正安国論」執筆の時代までをダイナミックに感動的に描く。1952年(昭和27年)の作品である。

日蓮は1222年に千葉県小湊町で漁師の子として生まれた。幼少時の名を善日丸と言い、非常に素直で聡明な少年だったらしい。12才の時に「人がなぜ不幸せになっていくのか知りたい」と房総一の名刹清澄寺へ入門し、一心勉学に励む。しかし殺生、偸盗が蔓延る末法の世に嘆き、「人はなぜ破戒に覆われているのか」「八宗十宗は一つになって浄土の将来に尽くすべきなのに、なぜ派閥を作って争っているのか、いっこうに極楽浄土に近づけないではないか」と、山を下って真の仏法を求める旅を決意をする。17才の時だった。

幕府のあった鎌倉、仏教界頂点の天台宗比叡山、園城寺、京都では曹洞宗の禅や臨済宗、南都では法相宗の薬師寺、空海の真言宗高野山、さらには孔子孟子まで全ての書を読み尽くし、真理の教えを追求したが、納得のいくものはなかった。結果的に日蓮は確信する。釈尊の言った「末法の世にこそ「法華経」を信じよ」こそ真理であり、「我が身の不幸から衆生済度の実践」が進むべき道であることを。この果敢に攻め入るアグレッシブな性質は保守的な他の宗教人には見られない。後年の日蓮の言動を理解する上で極めて重要な点である。

1253年(建長5年)、故郷清澄山ではじめて「南無妙法蓮華経」を唱えて、他の宗派を烈しく糾弾、法華経の絶対性を主張する。しかし攻撃された側は怒り心頭で、他の仏教や領家を敵に回してしまった。「他宗の攻撃は、ただ憎んでの攻撃ではない。仏法を一つの正法にせんがための涙をのんでの鞭である」と改める気もない。

故郷にいられなくなった日蓮は鎌倉に出て辻説法を始める。石を投げられたり罵声を浴びたりしても屈せず6年間毎日続けた。そのうち少しずつ信者が増えて、庵のある松葉ヶ谷は賑やかになってきた。1260年ついに行動に移す。時の最高権力者である北条時頼に天変地妖、飢饉疫癘の世に対する救世の方策と現在政治の否定、諸宗攻撃を綴った「立正安国論」を提出したのである。一切の他宗を退け、「正を立て国を案ずる」策を講じよ、このままでは魔、鬼、災、難が立て続けに起こるだろうと、半ば脅迫めいた提言をするのだ。一歩間違えればその場で慚死ではないか。誰であろうと自身が信ずる真理を懇々と説く。日蓮の行動を覆っていた思想である。

本書はなぜかここで終わるのだが、その後も艱難辛苦は続いた。提言が幕府の怒りを買い、伊豆へ流された。3年後に戻ったかとおもえば、また政権に向かって改革を説く。相手が理解するまで何度でも直訴するつもりなのだ。今度は当時の最重要犯罪人が送られる厳寒の佐渡に流された。その年の10月蒙古軍来襲し、国中が大混乱に陥った。命を賭けた予言が当たったのだ。政府は日蓮を鎌倉へ戻す許可を出す。そして存在を認めた。日蓮の精神が勝った瞬間だった。

晩年は山梨県身延山で穏やかな日々を送った。1282(弘安5)年9月、武蔵野国池上で61才の生涯を終える。日蓮の長い戦いは幕を閉じた。

日蓮は何の後ろ立てもなく全くの一人で始めた。狂気に近い不屈の精神だけが支えだった。宗教家としてももちろん一流であったが、政治家、教育家としての素養も持ち合わせていたと思う。法然親鸞が個人個人の浄土を説いたのに対し、日蓮の教えには「現在の世を正しく生きよう。そうすれば平和な世の中になって、皆が幸せになる」という国づくりのメッセージも多分に込められていた。庶民が政治の事に口を出すなど考えられない鎌倉時代だからこそ日蓮の行動は光り輝いているのだ。

内村鑑三が自著「代表的日本人」の中で日蓮を全世界に紹介していたことを思い出す。「日本人の中で日蓮ほどの独立人を考えることはできません。その創造性と独立心によって、仏教を日本の宗教にしたのであります」「受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でした」「彼は自分自身の意志を有していたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかしそういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです」。最高の賛辞である。

『戊辰戦争―敗者の明治維新』 (中公新書) 佐々木 克薩長倒幕派による国家樹立を確固たるものにした戊辰戦争。1868年(慶応4)戊辰の年の正月に始まった鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜らの旧幕府派に勝利し、勢いに乗った維新政府軍は、その2ヶ月後に西郷・勝会談で江戸城明け渡しに合意、7月には大村益次郎指揮の元で上野彰義隊を壊滅。その後、奥羽越列藩同盟を結成して抵抗する北越東北へ進軍し、長岡藩を撃破、最大の決戦となった会津戦争で会津藩を制圧。翌年5月には箱館五稜郭へ逃走した榎本武揚軍を鎮圧し、内戦は終了した。

戦争が起きる理由は様々だが、一般的には政治的、経済的による衝突であることが多い。今回の場合、天皇を中心とした中央集権体制並びに薩長中心の政権を目指す維新政府軍と旧幕府派による「どちらが新しい国の主導権を取るか」の権力闘争であった。結果は戦争経験に富み近代武力を用いた維新軍の圧倒的勝利に終わり、新しい国家が誕生した。絶大な権限を掌握した薩長藩は以降、ドラスティックに版籍奉還・廃藩置県などの近代化改革を進めていくのである。

「これまで敗者を分析したものはあるが、戊辰戦争全体を敗者の側から記述したものは、きわめて少ない」。自身の実家が戊辰の舞台となった秋田県出身の著者佐々木克は、世の脚光とは逆の立場から本書執筆にとりかかった。1976年(昭和51年)に上梓された『戊辰戦争』は、維新文献の大家原口清や石井孝の書、「復古記」「維新史」や未公開の「宮島誠一郎戊辰日記」などの膨大な資料を丹念に読み込み、説得力ある数字と詳細な日付を提示しながら、全国で起きた戦争を追いかける。

「東北は決して戦争を望んでいた訳ではない」。最後まで抵抗した会津藩容保と桑名藩定敬の松平兄弟、長岡藩家老河井継之助の行動や奥羽越列藩同盟の設立趣意書を見ても、誰もこのままの徳川幕府で良いとは思っていないことがわかる。そもそも当の慶喜に戦意が無い。むしろ彼らは薩長の専横的なやり方に反対し、公儀政体による新しい諸藩連合政権を求めたのではないか。確かに東北諸藩が作成した新国家プランは稚拙で実現性の低いものであったが、かといって彼らが思想を持っていけない訳ではなく、ましてや朝廷を敵視したものでは絶対になかった。これでは「勝てば官軍、負ければ賊軍」ではないか。そう著者は言う。

時勢を直視すると、徳川300年政治の腐敗がひどかったことや人民はもちろん諸外国もが政治の刷新を求めていたことは事実であり、日和見の藩がほとんどの中で薩長だけが自らその先頭に立ち、長州征伐や安政の大獄で自藩に多数の犠牲者を出しながらも幕府と屈せずに戦ってきたことも事実である。薩長はこの戦争でも「少しでも気を許せば維新は成立しない」「負ければ自藩が壊滅させられる」と必死だったであろう。だから鋼鉄の意志で徹底的に抵抗勢力を潰しにかかった事も理解できる。むしろ薩長がいなければ維新は成し得なかったし、日本の近代化は何十年も遅れたであろう。

誤解を恐れずに言えば戊辰戦争の目的は維新軍も旧幕軍も大同小異であったと思う。しかしちょっとした構想や立場の相違がどんどん広がって、ボタンを掛けるのが難しくなってしまった。そこに歴史の儚さがある。

「戦争があり、勝者と敗者に決着がついてしまった以上、敗者の側が勝者によってなんらかの形で裁かれるのは歴史の必然で仕方のないことである」「戦争主体が武士階級であってみれば、敗れた者が敗残の人生をたどるのは、武士としては当然すぎるほどの運命」。休戦に向けて奔走した河井継之助や勝海舟、山岡鉄舟、榎本武揚らの努力が実っていれば・・・。そうすれば同じ日本人同士で殺し合う事も無かったと著者は悔やむ。

この戦争では多くの人が亡くなった。徒手空拳で銃に立ち向かい散っていった無数の無名藩士、会津落城を聞いて自害した西郷頼母の妻と子供、その家族達や十代の青年で構成された白虎隊、長岡戦争で敗れ会津に向かう途中に死んだ河井継之助、農民の出でありながら箱館戦争で武士より武士らしく勇敢に戦死したといわれる土方歳三、領地替えで極寒の僻地で餓死した会津農夫。戦後、東北は長年にわたって物理的、心理的な負の遺産に苦しんだ。

これらの非業の死をただ「欧米諸国に肩を並べようと近代化を目指した中で起こった時代のうねり」の一言で片付けるには余りにも切なく悲しい。そして余りにも無責任だろう。一人一人の自由と平等が保障された国家、公正で公平な競争が尊ばれる社会。私たちが暮らすこの恵まれた社会は、わずか140年前に起こった変革と多くの犠牲者の上に成り立っている。そのことを忘れてはならないだろう。

『歎異抄』 (ちくま学芸文庫) 阿満 利麿浄土真宗宗祖親鸞の教えが書き記された「歎異抄」。おそらく世の中で最も読まれている宗教書だろう。歎異とは「違いを嘆くこと」。親鸞亡き後20数年を経て、聖人の教えとは異なった解釈が広まるのを嘆いた唯円が、「本願念仏」の本旨を後世永久に伝えるために書いたとされる。今も私たちを魅了してやまない代表的古典である。

ちくま学芸文庫の本書は明治学院大学名誉教授の阿満利麿が現代語訳と解説を担当。阿満氏は京大卒後、NHKに入局。その後、宗教学者へと転じたという経歴の持ち主で、宗教関係、特に法然と親鸞の教えに内在する原意をわかりやすく示した著書が多数。以前取り上げた角川書店の法然「選択本願念仏集」も同氏によるものだ。

さて「歎異抄」だが構成は全十八章から成っている。唯円が書を著すに至った理由を述べる序文から始まり、第一章から第九章では親鸞思想の要諦となる語録を紹介し、第十章から第十八章では誤った解釈や言動の数々を俎上に載せて親鸞の真意を教え諭す。そして最後は正しい信心への切なる願いを込めた結文で終える。

親鸞の教えとはどういうものなのか。それは法然の教えと同じであるといってもいいだろう。法然が「ただ南無阿弥陀仏と一心に唱えるだけで人は浄土へ行ける」と説いた「本願念仏」、そして「老少善悪のひとをえらばれず」「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがため」と、弥陀の本願には老人も若者も、善人も悪人も、階級も貧富も関係ないという平等性が二人の共通した「思想」であった。

親鸞特有の解釈としては、よく「悪人」というキーワードが挙げられる。第三章の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと」「悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」のあたりである。

悪人とは悪事を働く人間を指すのか。では善行を重ねた者が報われないではないか。確かに法然は従来の思想では浄土に行くことが難しいと言われていた、人を殺す職業の武士も家畜や魚を殺す人も善悪は一切関係ないと説いた。しかし親鸞はさらに一歩押し進め、人間とは煩悩を絶対に消すことの出来ない生き物なのであり、いわば私欲にまみれた凡夫、悪人である、阿弥陀はそんな人間こそ救ってくれるのだと定義した。ここは少し難しい。この意味について訳者の阿満は「親鸞のいう悪人とは世間一般の道徳的な善悪ではなく、人間の中に潜む煩悩、エゴイズムであろう」と説明する。つまり「善」を持つものは「仏」しかいない。人間は全て「悪人」と言える。そんな利己的な性質を持つ人間こそ必ず仏になれると親鸞は言っているのだ。

また個人個人の心の持ち様にも深く入り込んでいる事にも注目したい。特に現代宗教はともすれば教祖崇拝、教団崇拝に力点が置かれる事が多いが、親鸞は生涯に渡って教団も弟子も持つことは無かった。孤高と呼ばれる由縁だ。信者がその理由を尋ねると親鸞は「わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせふらはばこそ・・(第六章)」と、私の計らいで人を仏に導くことが出来るなら良いが、それは出来ない、専修念仏において人は阿弥陀仏の促しによってのみ仏になるのだから、わが弟子などということはまことに尊大だと答えている。

これは晩年よく言っていた「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人のためなりけり」の考えと通ずる。他人を救うことはできない、自分がこれまでやってきた事は自分自身のためだったと親鸞はいう。一見利己的で突き放したようにも聞こえるが、「念仏とは他者のためではなく、自分が仏になるためのもの」「死後、浄土の世界で自分が仏になって多くの人を救えばよい」を聞くと何となく納得がいくだろう。信心とは一人一人のものなのだ。普段の生活の中で各々が念仏を唱えればいいのだ。出家する必要もないし、凡夫には到底無理な苦行をする必要もない。ただひたすら信じて唱えれば阿弥陀の力によって、自身の中にある「信心」が萌芽し、前進出来るのだと言う。

物質と情報が大量に溢れGNPでも世界有数を誇る経済大国日本。宗教とは最も縁遠い時代のようにも思える。しかし人生は順風満帆なことばかりではない。むしろ理不尽なことの方が多い。世界を見渡してみれば、殺人事件、交通事故、地震、津波などの自然災害、原発などの人的災害が絶え間なく起きている。私たちは自分ひとりの力では如何ともし難い災難や不幸に直面した時、どうすれば良いのかわからなくなる。そしてやり場の無い怒りや絶望、無力感に苛まれる。肉親や愛する人を失った時はなおさらだろう。

そんな苦しいときに人は「矛盾や不条理を自覚した時に「仏」というあり方に惹かれる」と著者はいう。そして人は人生の安らぎ、ゆとり、自信、余裕を求めて「無碍の一道」を歩み出す。弛まない「信心」の結果、一人一人の幸せを見出すのである。

『大久保利通』 (講談社学術文庫) 佐々木 克

1878年(明治11年)5月14日はどんよりとした曇り空だった。その日、閣議出席のため赤坂仮御所に馬車で向かっていた大久保は途中、紀尾井坂において石川県士族島田一郎ら6名に襲撃され、非業の死を遂げる。大政奉還から10年、大久保の志は暴力によって絶たれた。享年47才9ヶ月であった。

大久保の暗殺は事件性としてはもちろん政府にも大きな衝撃を与えた。彼が務めていた内務卿は現在でいえば首相に等しい。いや財政、司法などを除くその殆どを掌握していたことを考えると、むしろそれ以上だろう。組織などは殆ど固まっていない時代である。日本の政治は大久保を中心に動いていたといっても良く、政権の混乱ぶりは想像に難くない。

その一方で、少人数で政治を進めるやり方に不満を持つ者も少なからずいた。秩禄放棄や版籍奉還によって既得権が喪失した士族は特にそうであった。暗殺を実行した島田にとっても大久保とは許せない敵そのものであり、所持していた斬奸状(悪者をきり殺すについて、その理由を書いた文書)には、「公議杜絶、民権抑圧、政事私す」「慨忠節士疎斥、憂国敵愾徒嫌疑、内乱醸成す」と悪政を批判し、斬るべき奸魁として大久保らの名前が挙げられていた。

あらゆる情実を排して国家改革を断行した大久保には「冷酷」のイメージが付きまとう。しかし本当にそうなのだろうか。大久保はどんな人物だったのだろう。本書は、大久保の死から30年を経て、報知新聞の記者だった松原致遠が、生前の大久保と交流のあった人物を訪問取材し、思い出や逸話をほぼそのままの形でまとめた「大久保人物像」である。記事は新聞紙上には1910年(明治43年)から翌年までの約半年間に渡って連載された。

取材に応じたのは大久保の次男牧野伸顕や三男利武、三人の実妹、さらに内務省の部下や岩倉使節団に同行した者、大隈重信など実に23名にものぼる。ある人物を上司や部下、関係者などが評することで、客観性・公平性を求める「360度評価」という方法があるが、本書の場合も松原氏のリードによって引き出された逸話が大久保利通の素顔を浮かび上がらせることに成功している。相手の表情や仕草まで押さえて臨場感を出しているあたりはさすが記者である。当時の内情を知る資料としても一級。実に読み応えのある証言集となっている。

「大久保公はどんな人でしたか」との問いに、ほぼ全員が口を揃えて「とにかく怖かった」と答える。本人も苦笑だろう。寡黙にして峻厳、ほとんど笑わず、いつも煙草を吹かしていた。事務所はいつもシーンと物音一つしない。身体全体から発せられるその威厳たるや相当なもので、伊藤博文や大隈重信も前に立つと緊張してろくに話せなかったらしい。

仕事の報告をすると、黙ったまま聞いて「話はそれだけですか」「よろしい」で終わり。または「それは駄目です」の一言。怖いからそれ以上何も言えない。しかし良いと思ったら、後で即座に指示を出し実行した。たとえ目下の者であろうと人の話は良く聞き、いったん了承したら後は任せて一切口を出さない、そんな懐の深さもあった。

政治判断や人材登用は「全てにおいて公平無私」だった。藩閥や縁故は全くなかったという。特に維新の立役者薩長をどう扱うか苦心していたようで、維新は薩長の私心のためにやったと世間が思いはせぬか、そういう疑いを世間に起こさせてはならぬと、薩長藩は極力用いず、公明にした。「国家の難しい仕事がうまくいったのは大久保さんと木戸さんに拠るところが大きい。あの二人の公明正大な点は世人の想像以上であった」と部下だった河瀬秀治は回顧している。

実行力、担任力もあった。台湾出征問題であわや清と戦争になりかけた時には、自ら北京に乗り込み侃々諤々の交渉で、何とか日本で待つ政治家が納得する条件を引き出した。手柄はなるべく部下へ渡し、失敗責任は全て自分が負う。だから大久保のところには常に重要な相談が持ち込まれていた。

一方で、家庭に帰ると子どもとじゃれあって冗談を言う子煩悩な面もあった。子ども達はみな一様に「怒られた記憶がない」。教育熱心で「これからは海外の進歩的な学問を学ばなければいかん」と長男次男をアメリカに留学させた。友情にも厚かった。特に幼馴染みの西郷の西南戦争が噂になった時も最後まで「あいつは絶対に大丈夫だ」とかばい続けた。結果的に西郷蜂起の知らせを聞いた大久保は人前も憚らず涙を流したという。

インタビューでは皆が皆、故人を懐かしむように在りし日の思い出を語っている。話の途中で涙を拭う者もいた。「殺した奴が馬鹿じゃ。あの時代に殺すのは、天下を闇にするようなものであるというのが、分からなかったに違いない」と元陸軍大佐の高島は悔やみ、佐々木長淳は81才を過ぎてもなお「私は今も大久保公の遺志を全うしたいと思うのです」と偲ぶ。大久保が書いた格言を今も大切に持っていた。

元米沢藩家老で大久保に仕えた千坂高雅は、「自分の金を貯めようの、子孫のために産を残そうのという気はさらさらなかった。あの点は西郷と似ている。現に紀尾井町の変があったあと、調べてみると金はタッタ七十五円しかなかった。堂々たる内務卿が今なら一番金の貯まる位置だ (中略) 潔白極まる。負債は二万円ばかりあった。驚いたことに屋敷なども抵当に入っていた」と語った。彼の清廉潔白を物語るエピソードである。

維新三傑と呼ばれた西郷、大久保、木戸。この男たちが人生を賭して成し遂げた変革は日本が初めて経験するものだった。性格も思想も全く異なる3名の誰一人が欠けても維新は実現しなかっただろう。お互いに信頼し合い、真剣に意見を戦わせたからこそうまくいったのである。しかし人生は無常だ。明治10年5月木戸病死、同年9月西郷自刃、翌11年5月には大久保暗殺。まるで人生の終わりも打ち合わせていたかのように、3人とも同じ時期にこの世を去った。維新の終わりだった。

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