津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2012年10月

『法然を読む 「選択本願念仏集」講義』 (角川ソフィア文庫) 阿満 利麿『法然を読む 「選択本願念仏集」講義』 (角川ソフィア文庫) 阿満 利麿

近頃、仏教を特集した雑誌をよく目にする。震災の影響も多分にあるのだろう。嘗てない災害はあらためて私たちに人生というものを省みるきっかけをもたらしたといえる。それは遙か1,000年以上前の日本も同様であった。地震、火災、飢饉が立て続けに起こっていた平安末期。その混迷期に仏教の革命家法然は登場した。それまでの宗教が一部の限られた層を対象にした、およそ大衆とは縁遠いところで営まれていた時代に、「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に行ける」と、身も心も疲れ果て人生にさ迷う全て人たちへ生きるための望みを示したのである。

本書は法然の主著である「選択本願念仏集」について、法然がどのようにして新しい救済を見いだすに至ったのか、そして本集から私たちは何を学び取るべきなのかを、明治学院大学名誉教授で浄土教に関する多くの著書を出している宗教学者阿満利麿が、懇切丁寧に記している。法然に帰依していた関白九条兼実が、このままでは世の中に法然の教えが何も残らない事を危惧し、著述を依頼したと言われる「選択本願念仏集」。衆生宗教のパイオニアである法然について知ることが出来る好著といえよう。

法然が唱えた「本願念仏」は出家も厳しい修行も必要なく、「一向に(ひたすら唱えるだけでいい)」という至ってシンプルな条件であったため、ともすれば「天台」「真言」など従前の宗教を全て否定していると思われた。旧勢力(ここではわかりやすく新と旧という形をとる)から凄まじい弾圧を受け、最後には流刑の目にも遭ってしまう。瓦解寸前にまで追い込まれたのである。

しかし法然には多くの大衆の支持があった。いかに権力が法然を葬り去ろうとしても、一度音を立てて動き始めたうねりは簡単に止められるものではなかった。法然の画期的な教えはまるで地に染み込んでいく水のように人々の心を捉えていったのである。そこに自分の為でも寺院の為でも無い、貴も賤も無く、ただ衆生救済のために存在した強さがあった。

無論、人々は最初から信用していた訳ではない。世の中に仏様は本当にいるのか。姿も形も見えないではないか。どん底に居る人であればなおさらだろう。この普遍的な疑問ついて法然は「宗教はただきっかけを与えているだけであって、最終的には私たち各々の内心に拠るものである。あくまでも「主観的事実」の中にあるのである。だからひたすら心を無にして「南無阿弥陀仏」と唱えよ」と説くのである。阿満も「神仏の存在は、われわれの側の要求によって明らかになる」「自己を超えた無限の世界を希求する願望があって、はじめて神仏の存在が信じられてくる」と補足をしている。

だがそれでは自己の救済だけが目的になるのではないか。それが浄土宗なのか。そう捉えてしまう人もいた。これについて法然はこう教え諭す。そうした願いにとどまらず「浄土に生まれて仏になったものは、現世にふたたび立ち帰り、今も悩んでいる人を救ってあげるべき」であると。ともすると浄土宗は我が身の成仏だけを願う利己的な宗教のように誤解されがちだが、そうではなく我が意を得たら今度は他の人を助けてやりなさいという「利他」の精神を多分に持った宗教といえる。

結びの辺りで著者は「自らの努力で仏になることが出来る人に宗教は必要ない」という。確かにその通りである。強靱な精神力と健康な肉体を持った人間は、生きるという事にさほどの不自由もしていないはずだ。しかしある時「世の中の不条理に引きずり回され、無力な自己を見いだした」時に、私たちは唯一の心の支えとして「信心」を持ち始める。自己の艱難な人生を乗り越えていくために人間は信仰を持つのだ。それは浄土宗であろうと他宗派であろうと西洋宗教であろうと同じであろう。自身の実り多き人生のために宗教は存在するのである。

『新今昔物語』 (文春文庫) 菊池 寛『新今昔物語』 (文春文庫) 菊池 寛


「今昔物語」を材にした小説というとまず芥川龍之介を思い出してしまうが(というより彼が開拓したのだが)、菊池寛も負けじと多くの作品を残している。本書(文春文庫)の『新今昔物語』には「六宮姫君」「馬上の美人」「心形問答」「三人法師」「竜」「伊勢」「大雀天皇」「学者夫婦」「狐を斬る」「弁財天の使」「偸盗伝」「奉行と人相学」「好色成道」の13編が収められている。

菊池寛と芥川は高校の同級で同人誌『新思潮』も一緒に作っていた仲であるから、恐らく作品も競い合うようにして発表していたのだろう。本書を読んでいても「あいつの切り口がこうなら俺はもう一捻りしてやる」という菊地の嫉妬の念が目に浮かぶようである。(名作『無名作家の日記』に見られるように菊池の芥川に対するコンプレックスというか羨望は滑稽に思えることもある)

「竜」などはまさに菊池風の味付けを堪能させる作品だ。芥川の「竜」も「古典今昔」をモチーフに噂に踊らされる群衆の心理と事が大きくなって躊躇する小心者の心情をうまく描いていたが、菊池の「竜」は二転三転の捻りでもはや原形を留めていない。思わず吹き出してしまう最後のオチなどは本当に絶妙で、彼はちょっと欲を出して失敗する庶民を描かせると天下一品なのである。

本書はその他にも夫を待ち続けた姫の悲劇を描いた「六宮姫君」や「偸盗伝」など二人の競作と思われるものを収録する。文学界の一時代をリードした二人の性格を推し測りながら読み進めるのも面白いだろう。ひとつ残念なのは本書がすでに絶版となっていること。図書館で探すか古本屋で買い求めるしかない。この本は第1刷1988年となっている。あまり売れなかったのかもしれないが、創業社長の作品ぐらいずっと残しておきなさいよと思ってしまう。そんな事を考えるのは私だけだろうか。

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