『法然を読む 「選択本願念仏集」講義』 (角川ソフィア文庫) 阿満 利麿
近頃、仏教を特集した雑誌をよく目にする。震災の影響も多分にあるのだろう。嘗てない災害はあらためて私たちに人生というものを省みるきっかけをもたらしたといえる。それは遙か1,000年以上前の日本も同様であった。地震、火災、飢饉が立て続けに起こっていた平安末期。その混迷期に仏教の革命家法然は登場した。それまでの宗教が一部の限られた層を対象にした、およそ大衆とは縁遠いところで営まれていた時代に、「ただ南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に行ける」と、身も心も疲れ果て人生にさ迷う全て人たちへ生きるための望みを示したのである。
本書は法然の主著である「選択本願念仏集」について、法然がどのようにして新しい救済を見いだすに至ったのか、そして本集から私たちは何を学び取るべきなのかを、明治学院大学名誉教授で浄土教に関する多くの著書を出している宗教学者阿満利麿が、懇切丁寧に記している。法然に帰依していた関白九条兼実が、このままでは世の中に法然の教えが何も残らない事を危惧し、著述を依頼したと言われる「選択本願念仏集」。衆生宗教のパイオニアである法然について知ることが出来る好著といえよう。
法然が唱えた「本願念仏」は出家も厳しい修行も必要なく、「一向に(ひたすら唱えるだけでいい)」という至ってシンプルな条件であったため、ともすれば「天台」「真言」など従前の宗教を全て否定していると思われた。旧勢力(ここではわかりやすく新と旧という形をとる)から凄まじい弾圧を受け、最後には流刑の目にも遭ってしまう。瓦解寸前にまで追い込まれたのである。
しかし法然には多くの大衆の支持があった。いかに権力が法然を葬り去ろうとしても、一度音を立てて動き始めたうねりは簡単に止められるものではなかった。法然の画期的な教えはまるで地に染み込んでいく水のように人々の心を捉えていったのである。そこに自分の為でも寺院の為でも無い、貴も賤も無く、ただ衆生救済のために存在した強さがあった。
無論、人々は最初から信用していた訳ではない。世の中に仏様は本当にいるのか。姿も形も見えないではないか。どん底に居る人であればなおさらだろう。この普遍的な疑問ついて法然は「宗教はただきっかけを与えているだけであって、最終的には私たち各々の内心に拠るものである。あくまでも「主観的事実」の中にあるのである。だからひたすら心を無にして「南無阿弥陀仏」と唱えよ」と説くのである。阿満も「神仏の存在は、われわれの側の要求によって明らかになる」「自己を超えた無限の世界を希求する願望があって、はじめて神仏の存在が信じられてくる」と補足をしている。
だがそれでは自己の救済だけが目的になるのではないか。それが浄土宗なのか。そう捉えてしまう人もいた。これについて法然はこう教え諭す。そうした願いにとどまらず「浄土に生まれて仏になったものは、現世にふたたび立ち帰り、今も悩んでいる人を救ってあげるべき」であると。ともすると浄土宗は我が身の成仏だけを願う利己的な宗教のように誤解されがちだが、そうではなく我が意を得たら今度は他の人を助けてやりなさいという「利他」の精神を多分に持った宗教といえる。
結びの辺りで著者は「自らの努力で仏になることが出来る人に宗教は必要ない」という。確かにその通りである。強靱な精神力と健康な肉体を持った人間は、生きるという事にさほどの不自由もしていないはずだ。しかしある時「世の中の不条理に引きずり回され、無力な自己を見いだした」時に、私たちは唯一の心の支えとして「信心」を持ち始める。自己の艱難な人生を乗り越えていくために人間は信仰を持つのだ。それは浄土宗であろうと他宗派であろうと西洋宗教であろうと同じであろう。自身の実り多き人生のために宗教は存在するのである。