津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2012年02月

『法然の涙』 (講談社)  町田 宗鳳『法然の涙』 (講談社)  町田 宗鳳 2010年発刊

昨年(2011年)は浄土宗宗祖の法然上人800年大遠忌であった。総本山の京都知恩院や大本山の芝増上寺での記念事業はもちろんのこと、同事業の一環として東京国立博物館で開催された特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」にも多くの観覧者が訪れたそうだ。震災、原発で先行きに不安を感じた人が多かったのだろうか、この手の展覧会としてはかなり盛況だったらしい。

私たちの生活と密接に結びついている宗教。特に日本は仏教徒の多い国である。仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代の頃であるから、もう1,500年以上も日本に根付いていることになる。普段から怠惰な生活を送っている私などは宗教について話す資格などないのだが、それでも実家のお墓は仙台の浄土宗派・愚鈍院というところにあるので、法然に関連する書物は時々手に取っている。

武士の子として美作国(現岡山県)に生まれた法然が仏の道を歩むきっかけとなったのは、夜討ちで非業の死を遂げた父の「仏門の道を歩め」という遺言であった。父の死後、9歳で出家した法然は、那岐山菩提寺、比叡山延暦寺、西塔黒谷での25年にも及ぶ修行を経て、43歳の時に恵心僧都源信の『往生要集』、善導大師の『散善義』から「専修念仏」を見出し、独自の仏教観を確立する。その思想は貧富の差や有識無識、字が読めない人も男女も関係なく「南無阿弥陀仏」と唱えればだれでも極楽に行けるというもので、これまで出家信者や一部貴族、富裕層だけのものだった宗教に平等の思想を持ち込んだ。旧態依然と政争に明け暮れる宗教界に革命を起こしたのだ。

『法然の涙』は、政が混迷する平安末期を生きた法然激動の一生を、NHK「こころの時代~法然を語る」で講師を務め、法然に関する数多くの書を著している宗教学者・町田宗鳳氏が書き下ろしたものだ。著者は14歳で出家し京都の寺で修行、その後ハーバード大学神学部、ペンシルバニア大学東洋学部で学び、現在は広島大学大学院で教授を務めるという。何ともユニークな経歴の持ち主ではないか。

巷に多くある法然本の中でも本書は実にわかりやすい。一般的に仏教関連本は難解な専門用語が多い上に、時代背景も遙か昔の事であるから、とかく私たちは敬遠してしまいがちであるが、法然が字の書けないような無識の人にも理解できる平易な言葉で往生を説いたのと同様に、本書も法然の教えを現代言葉に置き換え読みやすくした著者の配慮が伺える。子どもにもお薦めである。

読み終えてあらためて法然の偉大さを認識する。鴨長明の『方丈記』などに見られるように平安時代の京都は、安元の大火、治承の大火、治承の竜巻、養和の大飢饉、元暦の地震と数多くの災害に見舞われていた。特に大飢饉では餓死者が何万人も道端に倒れ、その状態はまるで生き地獄のようであったと言われる。人々の不安や恐怖は相当なものだったろう。

そんな時代に法然は登場した。「打ち続く天災人災で、すっかり心が萎えてしまった人々も、法然の話を聞いているときだけは、一条の光明を見るような気になった」と言われるように、前関白九条兼実、式子内親王、建礼門院などの殿上人や勇敢な武士であった熊谷次郎直実、甘糟太郎忠綱、陰陽師阿波介、さらには強盗耳四郎まで多くの人々が法然のもとに集い、そして助けを求めた。
法然は微笑みながら優しく答える。「恐かったでしょう。不安だったでしょう。でも大丈夫です。人はいつか死ぬのです。遅いか早いかは天が決めてくれるのです。これまで如何なる悪行を重ねた人も天は絶対に見捨てません。懸命に唱えれば地獄に行くことはありません。みんなで一心に唱えましょう」。その教えは没後800年を経た今も私たちの心に生き続けているのである。

『茶の本』 (岩波文庫) 岡倉 覚三、 村岡 博『茶の本』 (岩波文庫) 岡倉 覚三、 村岡 博 1906年(明治39年)発表

私たちが普段何気なく飲んでいるお茶。鮮やかな緑色を有するこの飲み物は、日本の生活文化に深く浸透している。「お茶をしよう」と言えばコーヒーを飲みながら談話をしてくつろぐ事を意味し、来客に「お茶を出す」と言えば一手間掛けて煎れるおもてなしと感謝の気持ちを表す。まさかお客に水を出す人は居るまい。さらに「茶道」ともなると伝統的な様式にのっとって客人に抹茶を振る舞い、思想や宗教、芸術にまでと奥深く踏み込んでいくのである。

お茶はいつ頃から日本に存在するのだろうか。農水省のホームページに拠ると「奈良平安時代に、最澄、空海などの留学僧が唐からお茶の種子を持ち帰ったのが始まり」とある。今から1300年以上も前のことだ。当時は非常に貴重で一部の者しか口にする事が出来なかったらしい。その後、鎌倉時代になると禅寺での喫茶の儀礼となり、秀吉時代に千利休らが茶道を確立する。単なる飲み物としてではなく、茶室、茶道具、生花、美術から立ち居振る舞いまで禅の精神を取り入れた技芸として定着していった。

一方、海外では、オランダやイギリスが1600年代に、東インド会社を通して中国から大量に茶の輸入を始めている。茶は高級嗜好品として王族貴族を中心に広まり、産業革命以降は、ヨーロッパ社会の社交文化に欠かせないものとして中産階級にも普及していく。大英帝国繁栄の源泉は税率の高いお茶貿易のお陰でもあったのだ。ちなみにアメリカ独立のきっかけとなったボストン茶会事件もイギリスが植民地アメリカにかけていたお茶の高税率への怒りに端を発している。いかにお茶が庶民生活に根差していたかが伺える話だ。

このようにして東西全く異なる経緯で広まり親しまれていたお茶であったが、相互の理解という意味では近代になっても無きに等しかった。ヨーロッパにとってアジアは遙か東方の植民地という意識しかなかったのかもしれない。明治時代、インドとヨーロッパへの外遊で、西洋のアジア蔑視の風潮を目の当たりした美術家で思想家の岡倉天心は、「アジアは一なり」(Asia is one)の思想を唱えた『東洋の理想』をロンドンから英文で発表し、東洋文化への理解を求めた。そしてその3年後の1906年(明治39年)には遊学中の米ボストンで、日本伝統の精神修養と作法を究める「茶道」の啓発を目的に、『茶の本』の原本「The Book of Tea」を出版したのである。

全て英文で書かれた「The Book of Tea」は、唐、宋、明の時代に生まれた茶の源流から始まり、道教と禅道との関係と茶道の確立、千利休が初めて建てたと言われる茶室の意味、西洋における花の浪費と日本の生花文化の違いまでを体系的に述べている。「インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心を宿命論の結果」と嘲っていた西洋人に対し、茶の湯によって精神を修養し、交際の礼法を究める「茶道」精神を説いた。それは中国からの流れを汲む禅の精神と古来、自然世界を崇め敬ってきた日本が誇る東洋民主主義の真精神でもある。

これらの事からわかるように本書は単に「お茶」の文化だけを書いたものではない。300年近い鎖国で海外との交流を絶っていた日本が、維新後、世界のマーケットに足を踏み入れ始めた時代に起きた文化・経済の衝突に対し、英文で丁寧に日本ならびにアジア文化への理解を求めたものなのである。「ばかげた「黄禍論」を出すならオールアジアは「白禍論」をいくべきだ」と、時折激しい箇所も見られるものの、天心が真から願っていたのは、西洋文化と東洋文化が互いに理解する社会、共存する世界であった。

「まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか」と、東西両洋へ向けて語りかけた穏やかなその言葉に天心の願いを見ることが出来るのである。

『和解』 (新潮文庫) 志賀 直哉『和解』 (新潮文庫) 志賀 直哉  1917年(大正6年)発表

多くの若者にとって自我が意識された時にあらわれる両親への反抗の感情は、ごく自然で健全なものであるが、志賀直哉の場合は特に激しかったらしく、度重なる意見の相違から来る衝突で長らく父子絶縁が続いていた。直哉は幼少の頃、銀行の仕事が忙しかった父の手から祖父母に預けられており、しかも13歳の時に実母銀を亡くしている。裕福な家庭ではあったが、そのような環境もあったのであろう。父に対しては子どもの頃から不快な感情を持っていたと述べている。

関係が決定的になったのは直哉が18歳の時、田中正造で有名な足尾銅山鉱毒事件だった。被害者に同情を寄せて行動しようとした直哉と銅山経営者の古河市兵衛と関係が深かった父の間で対立が起こり、家出同然で飛び出してしまう。以来、絶縁状態になった彼にとって愛すべき親族は育てられた祖母留女だけだった。たまに帰る時もなるべく父の居ない時を選び、居たとしても裏玄関から祖母の部屋を訪れていた。徹底的に避けていたのだ。以降長い不和は続く。

結局彼が父親と和解したのは34歳で、実に絶縁から15年も経過していた。本書『和解』は二人の和解までの様子を、主人公大津順吉こと直哉の心情の微妙な変化と時代の移り変わりを重ね合わせながら率直に綴っている。このようなケースの場合、当人同士は勝手と言えば勝手だが、むしろまわりの家族の方が辛い。祖母や後妻の浩、そして直哉の妻康子は、お互いに意地を張っていっこうに歩み寄る気配を見せない二人の間で、板挟み状態で十何年も過ごさなければならなかった。その心労たるや相当なものだったろうと察する。

直哉の心境に変化が見え始めたのは、子どもが生まれた頃からだった。長子は不幸にも出産後すぐ亡くなったが、次女が生まれ、命名に祖母の名前を取って「留女子」とした辺りである。人の親になって初めてわかった事があったのかもしれない。父も高齢になってこれまでのような意地を張るのがつらくなって来ていたのだろう。直哉が文中で述べているようにまわりの家族も出産を機に仲直りさせようと意識していた事も大きかった。直哉が実家を訪問し、父の部屋で謝った時に、これまでの15年が氷解したのである。

彼は、実父との対立を、創作のモチベーションにしていたように思える。実業家として偉大で、敵対する父を乗り越えようとして足掻くというのか、見返してやりたいという気持ちというのか。武者小路実篤ら学習院時代の仲間と文芸誌『白樺』を創刊し、プロの小説家としての道を少しずつ歩み始めてからも、彼の心の奥底には父への怒りを執筆動機としている点が散見される。しかし本書の結末で、実父直温と直哉、祖母、妻、継母、そして小さな子ども達が一緒に外食をし、涙を流しながら、喜んでいるシーンを見ると、家族はもちろん私たち読者も、人の家庭の事ながら、「良かった良かった・・」とジーンとしてしまうのである。対立や憎しみが好きな人間はいないのだ。

『戯作三昧・一塊の土』 (新潮文庫) 芥川 龍之介『戯作三昧・一塊の土(げさくざんまい・いっかいのつち)』 (新潮文庫) 芥川 龍之介

本書には表題の『戯作三昧・一塊の土』のほか、1917年(大正6年)から1926年(大正15年)、芥川龍之介が25歳から33歳のほぼ作家活動全般の間に書かれた全13作品を収められている。出世作「羅生門」「鼻」での平安王朝物の印象が強い芥川だが、ここでは江戸時代物の「或日の大石内蔵之助」や「戯作三昧」「枯野抄」、明治時代の開化物と呼ばれる「開化の殺人」「開化の良人」「舞踏会」とそれに連なる「お富の貞操」「雛」、現代をワンシーンを自然派的に描写した「秋」「庭」「あばばばば」「年末の一日」と、実に多種多彩に時代を回遊している。

現代でもお馴染みの忠臣蔵の立役者を材にした「或日の大石内蔵之助」では、討ち入り後、預かり中の細川家で幕府裁定を待つ赤穂浪士たちを淡々と描く。世間から英雄に祭り上げられる事への違和感や計画途中で行方をくらました仲間に無念の思いを抱く内蔵之助と庭先に見える冬の静寂が哀しく織り成す。「生質静にして言葉少な也」と言われた内蔵之助の心のうちを見事に描き出す。

曲亭馬琴の苦悩を描いた「戯作三昧」の異色な切り口などは芥川ならではだろう。江戸時代に一世を風靡していた「南総里見八犬伝」も実は「水滸伝の焼き直し」と批判され悩んでいたのではないかと想像を働かせ、戯作が持つ道徳的観念と馬琴が追求した芸術的表現の葛藤を描いている。これは古典から材を取る手法を取ってきた著者そのものの苦悩でもあろう。芥川は江戸時代の戯作大家に自身の不安の解消を委ねているのだ。銭湯の中で自分の悪評を聞いた象徴的な市井シーンからは、後年の彼の行き詰まりが微かに感じ取れるようでもある。

「枯野抄」は、松尾芭蕉の辞世の句と言われる「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」から取ったもので、俳聖の臨終現場に立ち会った多くの弟子たちの心情の奥底に光陰を当てている。偉大な師匠の死を目の当たりにして、嘆き崩れる者、次の段取りを考える者、なぜか心が解放された気がした者、十者十様の複雑な胸中が並行する。この皮肉的な対比は昔見た伊丹十三監督の名作『お葬式』をどこか思い出してしまう。ちなみに本書は夏目漱石の臨終現場に集まった徒弟達を題材にしたと言われている。

暗澹な農村を描写した「一塊の土」は、夫亡き後、女手一つで一心不乱に野良に出て家系を支えるお民と家で息子の面倒を見る姑のすれ違う感情を描く。厳しい自然と地を這うような土の描写は有島武郎の『カインの末裔』を彷彿とさせる。子どものために一銭でも多くお金を遺したい母親と高齢で身体が動かない中、家事の一切押しつけられる舅の怨み。「働き者」だという名声が村内から上がれば上がるほど、舅の嫁に対する憎しみは深くなっていく。維新後も家制度が深く残っていた農村の歪みを芥川は珍しく自然主義的作風で取り組んだ。

幼少の頃より日本・中国古典に親しみ、東京大学英文科ではヨーロッパ文学を学び、優秀な成績で卒業した芥川は、平安や中国古典のみならず、本書に見られるように江戸、明治文明開化、現代、さらに自然主義文学と覚しきものまで、豊富な知識を縦横無尽に操り、新旧の口語調、文語調を以て、ありとあらゆる題材の作品を発表した。同年代の作家の誰一人も真似出来ないものだ。短編という限られた文字数の中に彼の持つ才能全てをぶつけたのだ。

しかしその余りにも豊かすぎる才能と細部まで徹底的に拘る芸術的嗜好は、「戯作三昧」で馬琴に代弁させたように、自身の存在価値やアイデンティティーに錯乱を来たし、自身が何者なのかよくわからなくなって来てしまう。当時主流であった自然主義文学が作家個人の私的生活を描くことで、はっきりとした「個」を持つことが出来たのに対し、芥川らが目指した芸術的な新理知派は「テーマ」が主のために、パーソナリティー[personality]はさほど光を浴びない。だから彼はその不安を必死に打ち消そうと様々な、まるでそれは端から見ると自棄のようなアプローチを試みたのではなかろうか。その事が本書から伝わってくるのである。

『おくのほそ道』 (角川ソフィア文庫) 松尾芭蕉『おくのほそ道』 (角川ソフィア文庫) 松尾芭蕉


先頃56年間教鞭を執った米コロンビア大を退職し、日本への帰化を決めた日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、東日本大震災で被害を受けた東北について、「56年前に『奥の細道』をたどる旅で出会ったあの東北の美しい光景と温かな人々が心配でなりません」と語っていた。18歳で源氏物語に触れて以来、数多くの日本文学に関する著書を発表してきた89歳の同氏は、2011年9月に永住のために来日し、「東北の人を元気づけられれば」と仙台の復興シンポジウムにも参加。これからの余生を日本人として送るという。

松尾芭蕉が『おくのほそ道』をまとめたのは今から約320年前の元禄時代のこと。46歳の時に深川の自宅を売却し東北をめぐる旅に出かけた芭蕉は、千住、日光、福島、仙台、塩釜、松島、平泉、山寺、最上川、象潟から日本海に沿って新潟、金沢、福井、岐阜の大垣まで実に2,400kmを半年かけて歩いた。その行く先々で詠んだ句と紀行文をまとめたものが『おくのほそ道』である。

当時の46歳と言えば壮年というよりもう晩年に近い。今と違って交通網などは皆無に等しく、旅には多くの危険が伴っていた。しかし芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・(略)・・日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」と、古代、道中で倒れた詩人西行などを偲び、旅への想いを馳せ旅立ちを決意した。相当の覚悟だったと思われる。

芭蕉にとって東北地方、特に松島、平泉は憧憬の地であった。今回の旅も松島見たさに出かけたようなものだ。「白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心狂わせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて」(笑)の言葉には、松島の事を考え始めたら居ても立ってもいられなくなった芭蕉の子どものような心情が伺えて面白い。

東北の美景は想像通りのものだった。塩釜から船で渡った夕暮れの松島を見て「扶桑第一の好風にて、およそ洞庭・西湖を恥じず・・・松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯めたるがごとし・・・いずれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ」と湾内に佇む無数の島々を睦まじい家族に見立て、松の緑と枝葉が織りなす所作と自然が作り出した美しさにただ息を飲んだ。さすがの芭蕉も松島では声を失い、句を作ることが出来なかった位だった。

また平泉の中尊寺では、平安時代に栄えた奥州藤原三代の栄枯盛衰と源義経の悲劇の現場を目の当たりし、「夏草や兵どもが夢の跡」、同行の曾良は「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」と詠い、ただただ涙を落としている。実の兄の頼朝に追われ落ち延びて来た義経を匿った秀衡は結局、鎌倉軍の戦略の犠牲になって一族全てが滅ぼされた。芭蕉は遙か500年以上も前の歴史と目の前に広がる荒れた草原を比べながら人生の無常をしみじみと詠っているのである。

ところで芭蕉は道中、実に多くの人の自宅を訪れている。意気投合すれば4泊も5泊も留まっていたらしい。彼の名声は東北の寒村にまで伝わっていたのか、その待遇の良さは羨ましい位である。「旅」の魅力は、異文化を見聞き体験する事と道中の出会い、一期一会の心情であると思うが、この聖典『おくのほそ道』も芭蕉一人によって成し得たものではなく、行く先々で彼を温かくもてなした東北の人々があっての事だろう。

2011年3月11日、芭蕉が恋い焦がれた東北は壊滅的な被害を受けた。彼が偶然訪れた数百の船舶で賑わっていた石巻港や壺碑の多賀城は津波に襲われた。絶賛した松島は湾内に点在する島々が波の緩衝材となって奇跡的に被害が少なかった。国宝・瑞巌寺や塩釜神社はほぼ無事だった。住民は「島が津波から守ってくれた」と感謝する。平泉の中尊寺金色堂では震災の1週間後、大津波や地震の犠牲者の冥福を祈る法要が営まれ、14世紀に鋳造されたという鐘が打ち鳴らされた。

芭蕉の残した句には自然と人生の感動を詠ったものが多い。時として天地が引き起こすこのような事態に遭遇すると私たち人間は途方に暮れてしまうものだ。しかしそもそも私たちは古来、自然を畏敬し、自然と共に生きてきた。過去何度も津波や地震に襲われながらも立派に生きてきた。この惨状から立ち直ることは容易ではないだろう。それでも日本国は歯を食いしばって頑張っていかなければならない。

 

 

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