『草枕』(新潮文庫) 夏目 漱石 1906年(明治39年)
漱石は、1905年(明治38年)に正岡子規の弟子であった高浜虚子に勧められて『吾輩は猫である』を書いて以降、プロの小説家としてのスタイルを模索するかの如く様々な系統の作品を試みている。江戸寄席を思わせる諧謔文学の『我輩・・』や『坊っちゃん』、近代ヨーロッパを舞台に情緒的甘美を描いた『幻影の盾』」『薤露行』、旅行記ともいえる『倫敦塔』などで、『草枕』もその一つだ。
本書は「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」の有名な冒頭で始まる漱石の初期作で、せせこましい浮き世を疎んじて、世間離れた山奥の温泉へ逃避した主人公の青年画家と、投宿先の才気溢れる魅力的な次女那美やご隠居、僧侶との出会いを絵画的情緒をもって描く。
青年画家は温泉に向かう山道で「喜びの深きとき憂愈深く、楽しみの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ」と苦悩を漏らす。これは恐らく当時の漱石の心情そのものだろう。ロンドン留学で苦悩した彼にとって、愛とか正義とか権利、主張に積極的に首を突っ込み、苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする西洋的な社会は実に疎ましく、むしろ中国の詩人陶淵明や王維らの「社会のわずらわしさを脱した心境と自然への賛美」をうたう東洋思想に拠りどころを求めつつあった。
逗留中、主人公は俗世に流されそうになる自分を戒めるように「非人情、非人情」と呟く。「非人情」とは「義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと」。彼はそのために山奥の温泉まで来たのである。しかし突然と男風呂に入ってきたり、急に振り袖姿になって目の前に登場したり突飛な行動を取る奈美に対して、最初は戸惑いつつも、徐々に恋愛感情を抱き始める。観梅寺の坊さんや馬子の源さんとの何気ない会話の中にも安堵の心が見受けられるのである。以前住んでいた世界とは違った穏やかで素朴な「人情」が彼の心を融解していくのだった。
「夏目がどうやら発狂したらしい」と噂された留学先のロンドンから帰国して3年。二松學舍時代に無我夢中で学んだ漢籍を礎とする東洋的情緒やシェイクスピアやウィリアム・ワーズワースなどイギリス文学への憧憬とロンドン留学時代に抱いたヨーロッパ的個人主義(エゴイズム)への違和感が混淆していた漱石は、本書で「余裕は画に於て、詩に於て、もしくは文章に於て、必須の条件である」と、後の「余裕派」と言われるきっかけともなった人生に対して余裕を持って望む生き方、主義を目指した。本書は漱石の作品が人間の深淵描写に踏み込んでいく第一歩となったのである。
私たちはこの世で生まれてきた以上、多くの人と交わりながら生きて行かざるを得ない。一人では生きていく事ができないのである。漱石が忌み嫌った主義主張の強い西洋的観念の中で生きていくことも仏語の利他精神にみられる自身より他人の幸福を願う東洋的観念の生き方も、源を辿っていくと、環境は違えども、人を愛する感情や人間の自然な心情で形成される社会へと結びつく。つまり世の中とは私たち人間そのものなのである。
■熊本県玉名市「漱石・草枕の里」 http://www.kusamakura.jp/