津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2011年12月

『飯待つ間-正岡子規随筆選』 (岩波文庫) 正岡 子規、 阿部 昭『飯待つ間-正岡子規随筆選』 (岩波文庫) 正岡 子規、 阿部 昭  明治24年発表のものから


本書『飯待つ間』は、晩年に書かれた『病牀六尺』『仰臥漫録』 『墨汁一滴』 等の作品と比べて、まだ若かりし20代の頃の随筆が多数収められており、その内容は実に闊達で開放的、子規生来の性質が読み取れる貴重なものである。編者の安部昭は子規の書き残した多量の随筆類の中から、明治24年の『刺客蚊公之墓碑銘』から明治35年逝去直前の『煩悶』まで29作を編んだ。

本書でまず特筆すべきは『従軍記事』だろう。子規が28歳、『新聞日本』時代に日清戦争の従軍記者へ自ら志願し、近衛師団とともに海城丸で海を渡った記録である。船中の待遇は相当に悲惨だったようで子規の怒り心頭ぶりが伝わってくる。船に乗り込むなり上等兵から「ここへ列を作れ、新聞記者も通訳官も皆な下れ、ぐづぐづするな、早く」と怒鳴られ隊列を組まされたり、一人畳一枚も無いところに押し込められた上に「お前らもっと詰めろ」と言われたりと、人権を無視した家畜のような扱いに憤懣やる方ない思いだった。数ヶ月後、上等兵の「君らは(同じ従軍の神官僧侶と比べて)無位無官だろう、扱いは一兵卒と同様だ」の侮辱に子規ら記者一行は堪忍袋の緒が切れ帰国を決意。しかし環境は子規の身体を蝕み、帰国の船中に吐血、そのまま神戸の病院に運び込まれてしまう。解説によれば「子規を殺したのは軍だ」という話が上がるほどの言語道断ぶりだったらしい。その後の著書に見られる権力や横暴、理不尽を憎む一貫した姿勢は本件も大いに関係しているだろう。

一方、草花、果物など自然を明るく伸び伸びと語ったものも多い。もっとも子規らしさが出ている部分だろう。『わが幼時の美感』では、松山の幼少時には「赤い色」が大好きだったことや自宅庭に咲いていた桜、石榴、椿、水仙、サフラン、豌豆、蚕豆、菖蒲、無花果、蒲公英を想い起こし、「花は我が世界にして草花は我が命なり」と草花への愛情を語っている。果物への思いを綴った『くだもの』も秀逸である。くだものの字義から始まって、気候、色、旨き部分、嗜好、そして自分自身どこで食べたどんな果物を食べたか、それがどんなに美味しかったかをこれほど真剣に、しかも論理的に語るのは少し滑稽に感じるのだが、この徹底的なこだわりぶりは草花、果物など自然が生み出したものへの尊敬の念であり、色形味臭をありのままに捉えようとする表現は彼が目指した写実の世界そのものを表していると言える。

彼は近年の日本の学校教育についても憂えていた。『明治卅三年十月十五日記事』では、自分が学生の頃は「倫理の先生は必ず漢学者なりしもをかし」であり、「倫理学は西洋より志那が発達し居る」「漢学者の道徳は西洋学者より高きといふ訳」と述べ、それが現在では「校長のお髭を払うやうな先生が天下丸呑の立志論を述べ立つるなど片腹痛き」「生徒の軽蔑し居る先生がいくら口を酸っぱくして倫理を説くとも」無駄であると厳しい。維新後、国を挙げて西洋を真似た近代化を進める中で、サラリーマン的な教員が増え、古来日本が持ち続けていた道徳観が失われつつあるのを危惧しているのだ。

本書をあらためて振り返ると、子規が取り上げたテーマは、戦争、歴史、美、草花、果物、未来の東京、恋、哲学、文学、絵画、酒、旅、病、食べ物、政治、宗教、死と実に幅広く、しかもひとつひとつが奥深い。相当な教養と弛まぬ勉強がなければ無理であろう。子規はわずか35歳で逝去、後年はほとんど病に伏していたが、時勢を舌鋒鋭く語り、自然をこよなく愛し、大勢の門弟と交流し、十七文字の世界に生涯をかけた。このエネルギッシュなパワーがどこから来るのだろう。彼の著書を読み、その思想に触れる度に、彼の生き方に畏敬の感情を抱くのである。

 

『真理先生』 (新潮文庫) 武者小路 実篤『真理先生(しんりせんせい)』 (新潮文庫) 武者小路 実篤  昭和24年発表


埼玉県毛呂山町の埼玉医大近くに「新しき村」という共同体がある。争いや階級格差の無い理想郷の実現に共感した10世帯13名が農業で生計を立てながら共同生活を送っている村だ。ここの理念は「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させること」。この何とも大げさな基本精神を聞くと、少し怪しい団体ではないかと思ってしまうが、実は武者小路実篤が1918年(大正7年)、33歳の時に同志とともに創設した村なのである。埼玉県はその移転先にあたる。

実篤は25歳の時に、学習院の同窓であった志賀直哉、有島武郎らと『白樺』を創刊、人種・国家・階級・宗教などの違いを越えて、人類は広く愛し合うべきであるとする博愛主義、人間性を重んじ人類の福祉向上を目指す人道主義を志向し、文学の力によって新しい理想社会を作ろうとしていた。しかし文筆だけでは限界を感じたのか、飽き足らなかったのか、未開の地であった宮崎県児湯郡に「新しき村」を創設する。自らこの村に約6年にわたって住み、開墾をおこなうほどの入れ込みようで、『友情』『或る男』などの名作はここで生まれた。

その後、貴族院議員にも就任、名実ともに文壇の第一人者となった実篤だが、終戦と同時に公職追放令G項該当者で全ての公職から追放されてしまう。失意の日々を送りながらも雌伏して時の至るを待つこと3年。1949年(昭和24年)、64歳の時に追放令後初の小説『真理先生』を発表する。見かけはパッとしないが真理だけを生き甲斐に、いつ何時何を聞かれても淀みない明快な答えを出し、周囲から尊敬の念を集める「真理先生」と呼ばれる老人と、徒弟として彼の自宅に出入りする主人公の山谷五兵衛や道ばたに転がる「石」をこよなく愛す画家の馬鹿一、書家の泰山先生、画家の白雲子先生、絵画モデルの愛子ら大勢の登場人物の明るい人間模様を描いたものである。

武者小路の作品はいつも主人公と周囲の男女の間で次々に事件や騒動が起こる。本書でも少し変態的なところがあるけれど人の良い画家馬鹿一の俗世とはかけ離れた生活っぷり、気持ち悪いと思いながらそれに耐える女性モデル、毎回巻き込まれながらもついついお人好しに手助けしてしまう山谷など、右も左も珍事奇談である。けれども登場人物一人一人に裏表がなく、真っ直ぐに生きている人間ばかりだからすがすがしい。実篤は本書を「登場する人物はすべて善人である。そして変わり者の画家や書家たちである。変わり者というのは世間からみればそうなのであって、実はここに現代の一番健康な人間がいるのではないか」という。みんな前向きなので読んでいる私たちも朗らかな気持ちになるのだ。

武者小路実篤は60歳を過ぎてこの作品を書いた。しかもGHQから追放されている最中である。彼が東大時代に立ち上げた文学誌『白樺』の理念は宗教、人種などに関係なく異文化を理解し共存する世界を築くことだった。「真理」とは「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理」。まさに実篤が生涯をかけて追求した言葉である。彼は本書『真理先生』を通して私たちに具体的なメッセージをに投げかけてくる。

「人間は皆死ぬものだ。暴力は誰でも殺し得るものだ。だが真理は殺されない。最後の勝利は真理が得る。真理だけが死なない」「善人とはお人好しの意味ではない。自分の理想や信念に、あくまで忠実な努力家の事である」「心の美しき者は、皆に愛されるのは事実である。そして恐らくは運命にも愛されるだろう」。この心を打つ文中の言葉は日本人が第二次世界大戦で巻き起こした無謀さへの反省、敗戦で混沌とする日本へ向けたエールであり、人生の美しさや人間愛を語った実篤自身の人生の集大成とも言えるだろう。
 

■財団法人 新しき村
http://www.atarashiki-mura.or.jp/

 

 

『カインの末裔・クララの出家』 (岩波文庫) 有島 武郎『カインの末裔・クララの出家』 (岩波文庫 緑 36-4) 有島 武郎  1917年(大正6年)発表


武者小路、志賀らと創刊した『白樺』で中心的な地位にいた有島が、本格的な作家活動に入ったのは妻の死後まもなくのこと。その翌年1917年(大正6年)に『新小説』誌上で発表したのが『カインの末裔』である。カインとは旧約聖書『創世記』に登場するアダムとイヴの長男のことで、嫉妬から弟のアベルを殺害した事が、神ヤハウェの逆鱗に触れ世界から追放、放浪者となったと言われる。キリスト教の新約聖書における罪人の代表とされており、この兄弟を題材に親の偏愛と兄弟関係の苦悩を扱ったものとしては、古くはジェームス・ディーンの主演で有名なスタインベックの『エデンの東』やジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』などがあげられる。

有島が描いた『カインの末裔』は、カインとアベルの物語とは直接関係ないものの、以前キリスト教を信仰していた彼らしいタイトルとテーマで、有島の第二の故郷である北海道を舞台に、神から追放されて放浪したカインならぬ、社会から追放されながらも厳しい自然の中で逞しく生きる貧しい農民を描いている。彼が世の中に知られるきっかけとなった作品でもある。「Boys, be ambitious」で有名なクラーク博士が初代教頭を務めた札幌農学校(現北海道大学)で学んだ有島の作品には、北海道の怒濤のような厳しい冬を描いたものが多い。『生まれ出づる悩み』も『小さき者へ』もそうである。解説の小田切秀雄曰く「きわめて上質の、溢れ出るばかりの豊かな表現力」を持った有島が描く冬の自然描写、特に暗闇の吹雪のシーンは迫り来るものがある。

さて本書は、粗野で無教養、野人的、その資質から周囲と相容れる事が出来ない男広岡仁右衛門が主人公で、ようやくの縁戚を頼って妻や幼子、馬一頭で北海道の寒村にある農場へ向かっていくシーンから始まる。前の農場は馘首になって追い出されたからお金は一銭も持っていない。乞食同然の格好で食べ物も無く飢えきっている。蝦夷富士と言われるマッカリヌプリから北海道の厳しく冷たい風が吹き付ける。ボロボロになってようやくたどり着いたこの農場でも彼の資質は変わらなかった。挨拶もできない、暴力沙汰を起こす、農場のルールを守らない、金銭のいざこざを起こす。一方では喰うために厳寒の風吹きすさぶ時も猛吹雪で視界が真っ白になった時も一心不乱に畑を耕し働き、周囲で最も収益をあげた。しかしこの雪国の、閉鎖的で共存を重んじる農場社会はやはり彼を疎み、忌み嫌い、追放しようとするのであった。

有島は、この「人間生活に縁遠く、自然を征服していく業にも暗い」「人から度外視され、自然からは継子扱いにされる」農民を捉えて、「モデルは自分自身である」と1919年の『新潮』で述べている。それはどういう意味なのだろうか。高級官僚の父を持ち、学習院中等科を卒業、札幌農学校(北海道大学)入学、ハーバード大学留学、ロンドン滞在のキャリアと類い希なる豊かな文学的才能を持つ彼と、この粗野で貧しい農民を重ね合わせる事は難しい。端から見れば人も羨む実に立派な経歴ではないか。ポートレートを見ても実直温厚そうな人物である。彼は何を以て「私としてそれが自己の描出である」と言ったのだろうか。

彼の人生をつぶさに追っていくと糸口が見えなくもない。『カインの末裔』を発表した5年後の1922年(大正11年)、有島は北海道ニセコ町に所有していた農地を小作人に無償で与える農場解放宣言をおこなっている。自分が地主となって貧しい農民から搾取する事に悩み、全てを解放したのである。当時の世間一般の常識から考えると、自分の土地を他人にすべてあげてしまうなどは、一定の評価を得たものの、狂人の一歩手前と思えなくもない。またその翌年の彼の最期も異様である。軽井沢三笠山の別荘浄月庵で起こした人妻の波多野秋子と縊死心中の件だ。幼き子供を残しておきながらのこのエゴイスチックな、周囲を顧みない人生の終わらせ方はたしかに彼の二面性、暗い表裏を感じ取れる。衝動的に起こる鬱屈した欲望。彼が自身の事を「カインの末裔である」と言ったのは、彼の中に時として抑えきれない衝動が沸き起こることを、ひとり自覚していたからなのかも知れない。

 

 

『吾輩は猫である』 (新潮文庫) 夏目 漱石『吾輩は猫である』 (新潮文庫) 夏目 漱石  1905年(明治38年)発表

夏目漱石の文壇デビューとなった『吾輩は猫である』は100年以上経った今も多くの人に愛読されている名作である。本好きには「猫」で通じてしまう愛され方。知名度は日本の本で恐らく1、2位に入るだろう。後世に大きな影響を与えたこの作品は、赤川次郎の『三毛猫ホームズシリーズ』、内田百閒の『贋作吾輩は猫である』など本書をパロディー、モチーフにしたものを多数生み出している。

『吾輩は猫である』は漱石が39歳の時、日露戦争の最中の1905年(明治38年)に、子規の遺産となった句誌『ホトトギス』に掲載された。当初1回の読み切り予定であったのだが、明治時代の人間や社会批評をエスプリを効かせてユーモラスに語るその洒脱さ、斬新さが読者の支持を得て、翌年の8月まで計11回も書くこととなった。それをまとめたものが本書である。それにしても勧善懲悪や人情世俗が大半であった時代によくも猫を主人公にした小説を考えつくものだ。感心してしまう。

物語は、漱石自身がモデルと思われるしがない中学教師である苦沙弥(くしゃみ)先生を主人公に、苦沙弥宅に出入りする美学者の迷亭や苦沙弥の教え子で寺田寅彦がモデルと言われる物理学者の水島寒月、越智東風、金持ちで敵役の金田夫妻、さらには近所の魚屋や車屋、中学生、泥棒まで巻き込んで次々に起こる小事件、滑稽話、奇譚を描いた笑い話である。

堅物で頑固、社交嫌いの苦沙弥先生を、迷亭があの手この手でからかうのが本書の一番面白い部分なのであるが、下手な絵を描き始めた苦沙弥を迷亭が「アンドレア・デル・サルトの写生」を引用するホラ話や迷亭と東風が西洋料理屋でボーイ相手にふざけた「トチメンボー事件」、後半の水島寒月の演説の練習などの描写は絶妙である。漱石の文学的教養と英国留学時代の皮肉ユーモアが相俟って、登場人物の一人一人をより一層魅力的で生き生きしたものにしているのだ。

一方、大国ロシアに戦争を挑んだ日本の無謀ぶりを「猫」に批判させたり、次々に戦争を起こし、気にくわない人間がいれば法廷を訴えるなど個人の欲望のままに進めていく西洋の積極主義に疑問を呈したりと、現代社会のあり方を痛烈に指弾しており、後年彼が取り組んだ、人間とは社会とどのように関わって生きていくべきなのかというテーマの一端を垣間見る事が出来る。

本書は中盤、猫の語りがあまりにも冗長に続くため、途中で「こんなに猫の思索が深いわけないだろう」と思える部分があるのだが、これはどうも本書発表の数年前に亡くなった東大時代からの友人正岡子規へ向けた追悼文であるらしい。漱石は同い年生まれで自身が英国留学時代に病死してしまった子規の文学的影響を多分に受けたと言われている。デビュー作に『ホトトギス』を選んだのも意識してのことだろう。こういった所にも明治の文豪たちの関係が読み取れて興味深い。

■『吾輩ハ猫デアル』のパロディを読む 近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/information/shiryo_arekore/shiryo_arekore_5.html

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