『飯待つ間-正岡子規随筆選』 (岩波文庫) 正岡 子規、 阿部 昭 明治24年発表のものから
本書『飯待つ間』は、晩年に書かれた『病牀六尺』『仰臥漫録』 『墨汁一滴』 等の作品と比べて、まだ若かりし20代の頃の随筆が多数収められており、その内容は実に闊達で開放的、子規生来の性質が読み取れる貴重なものである。編者の安部昭は子規の書き残した多量の随筆類の中から、明治24年の『刺客蚊公之墓碑銘』から明治35年逝去直前の『煩悶』まで29作を編んだ。
本書でまず特筆すべきは『従軍記事』だろう。子規が28歳、『新聞日本』時代に日清戦争の従軍記者へ自ら志願し、近衛師団とともに海城丸で海を渡った記録である。船中の待遇は相当に悲惨だったようで子規の怒り心頭ぶりが伝わってくる。船に乗り込むなり上等兵から「ここへ列を作れ、新聞記者も通訳官も皆な下れ、ぐづぐづするな、早く」と怒鳴られ隊列を組まされたり、一人畳一枚も無いところに押し込められた上に「お前らもっと詰めろ」と言われたりと、人権を無視した家畜のような扱いに憤懣やる方ない思いだった。数ヶ月後、上等兵の「君らは(同じ従軍の神官僧侶と比べて)無位無官だろう、扱いは一兵卒と同様だ」の侮辱に子規ら記者一行は堪忍袋の緒が切れ帰国を決意。しかし環境は子規の身体を蝕み、帰国の船中に吐血、そのまま神戸の病院に運び込まれてしまう。解説によれば「子規を殺したのは軍だ」という話が上がるほどの言語道断ぶりだったらしい。その後の著書に見られる権力や横暴、理不尽を憎む一貫した姿勢は本件も大いに関係しているだろう。
一方、草花、果物など自然を明るく伸び伸びと語ったものも多い。もっとも子規らしさが出ている部分だろう。『わが幼時の美感』では、松山の幼少時には「赤い色」が大好きだったことや自宅庭に咲いていた桜、石榴、椿、水仙、サフラン、豌豆、蚕豆、菖蒲、無花果、蒲公英を想い起こし、「花は我が世界にして草花は我が命なり」と草花への愛情を語っている。果物への思いを綴った『くだもの』も秀逸である。くだものの字義から始まって、気候、色、旨き部分、嗜好、そして自分自身どこで食べたどんな果物を食べたか、それがどんなに美味しかったかをこれほど真剣に、しかも論理的に語るのは少し滑稽に感じるのだが、この徹底的なこだわりぶりは草花、果物など自然が生み出したものへの尊敬の念であり、色形味臭をありのままに捉えようとする表現は彼が目指した写実の世界そのものを表していると言える。
彼は近年の日本の学校教育についても憂えていた。『明治卅三年十月十五日記事』では、自分が学生の頃は「倫理の先生は必ず漢学者なりしもをかし」であり、「倫理学は西洋より志那が発達し居る」「漢学者の道徳は西洋学者より高きといふ訳」と述べ、それが現在では「校長のお髭を払うやうな先生が天下丸呑の立志論を述べ立つるなど片腹痛き」「生徒の軽蔑し居る先生がいくら口を酸っぱくして倫理を説くとも」無駄であると厳しい。維新後、国を挙げて西洋を真似た近代化を進める中で、サラリーマン的な教員が増え、古来日本が持ち続けていた道徳観が失われつつあるのを危惧しているのだ。
本書をあらためて振り返ると、子規が取り上げたテーマは、戦争、歴史、美、草花、果物、未来の東京、恋、哲学、文学、絵画、酒、旅、病、食べ物、政治、宗教、死と実に幅広く、しかもひとつひとつが奥深い。相当な教養と弛まぬ勉強がなければ無理であろう。子規はわずか35歳で逝去、後年はほとんど病に伏していたが、時勢を舌鋒鋭く語り、自然をこよなく愛し、大勢の門弟と交流し、十七文字の世界に生涯をかけた。このエネルギッシュなパワーがどこから来るのだろう。彼の著書を読み、その思想に触れる度に、彼の生き方に畏敬の感情を抱くのである。