『仰臥漫録 ぎょうがまんろく』 (岩波文庫) 正岡 子規 明治34年
子規の闘病中、東京都根岸の自宅には毎日のように門下生や関係者がお見舞いに訪れた。頻繁に顔を出したのは、新聞『日本』の社長・陸羯南(くがかつなん)、高濱虚子(たかはまきょし)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、寒川鼠骨(さむかわそこつ)、伊藤左千夫(いとうさちお)、坂本四方太(さかもとしほうだ)、五百木飄亭(いおきひょうてい)など、新聞『日本』や俳誌『ホトトギス』の関係者で、特に虚子、碧梧桐、鼠骨の同郷松山出身の門弟3人組などは3日に1回位来ていたのではないか。一門の深い絆と優しさが分かる。
『仰臥漫録』は、『墨汁一滴』連載後の明治34年9月から亡くなる直前まで、新聞連載向けの『病牀六尺』と同時に書き留めておいた日録である。 この頃の子規は寝たきりで自分で寝返りすら打てず、肺はほとんど空洞、身体は膿んで腐って所々穴があき、便の度に凄まじい激痛が体中を突き抜ける。絶叫、号泣、絶叫、時には失神、精神錯乱になり、普通の人は正視できない状態だった。
そのような身体にもかかわらず日記の内容は、天気、食事内容(例えば、朝食・ぬく飯三わん、佃煮、梅干し、牛乳一合(ココア入り)、菓子パン、塩せんべい、昼食・まぐろのさしみ、粥二わん、なら漬け、胡桃煮付、大根もみ、梨一つ、間食・餅菓子二個、菓子パン、塩せんべい、渋茶、晩・きすの魚田二尾、ふきなます二椀、なら漬け、さしみの残り、粥三椀、梨一つ、葡萄一房・・・・)から始まって、便の回数、飲んだ薬、包帯の取替と、誰々が訪ねてきて何を話したとか、日々感じたことや俳句まで、毎日事細かに綴っている。しかも新聞連載用の『病牀六尺』も同時に書きながらである。端から見ると狂気に近い。健康な人間以上の情熱とパワーを持っているのだ。
だから弟子に対しても厳しい。こと俳句の事となると痛烈だ。碧梧桐や四方太などは、稚拙だ、意味が分からない、駄目だ進歩がない、と何度怒られた事か。しかも新聞紙上でだから堪らない。伏してなお厳しである。他にも自分の給料は新聞社から40円とホトトギスから10円の50円だとか、虚子が家賃十六円の所に引っ越したけど自分は六円五十銭だとか、律は理屈っぽくてだめだ言語道断だ、介護も義務的にしかやってくれないとか、まあ我が儘と癇癪なのだが死期が近いと思えばしょうがないのだろう。もっともそう言いつつ時々みんなに感謝したりする。鼠骨のことを「病気の介抱は鼠骨一番上手なり。鼠骨と話し居れば不快の時も遂にうかされて一つ笑ふやうになること常なり。彼は話上手にて談緒多き上に調子の上に一種の滑稽あればつまらぬことも面白く聞かさるること多し」と褒めたり、とにかく人間臭い、愛すべき男だった。
画家の中村不折に影響を受けて始めた果物や草花の挿絵も味わい深い。彼は果物が好物だったから食卓に上がっていた柿や葡萄や梨や、庭に成った糸瓜や夕顔、大好きな菓子パン、原安民からもらった蛙の置物、床屋が持ってきてくれた盆栽など暇を見つけては描いた。どの絵もどこかユーモアがあって微笑ましい感じだ。ちなみに子規は実物を見たままに具象的に写し取る写生を俳句や短歌にも用いた。子規亡き後も碧梧桐、虚子、左千夫によって引き継がれている。角川文庫版の『仰臥漫録』にはカラーで載っているみたいだから見てみると良いと思う。
寝たきりの彼にとって食べる事は唯一の楽しみだった。奥州行脚の時に怪しい宿で食べた酢牡蠣がうまかった、もっと腹一杯食べたい、死ぬまでにもう一度本膳でご馳走が食べてみたいとか、西洋菓子や缶詰が欲しいと言えばすぐ目の前に山ほど出てくるといいなとか、最後に料理屋で作った仕出しを食べたいけれどお金もないから虚子から二十円借りたとか、去年の誕生日にみんな呼んで会食をした思い出とか、外に食べに行きたいとか、同居の妹や母はもちろん見舞客にもしょっちゅう話していたに違いない。だけど恐らくあと半年も生きられないとみんな感じていた。だから子規の妄想がどこかもの悲しい。
子規は子どもの頃、実は太政大臣(今の首相)になりたかったそうだ。けれど最近は大臣も村長も公のために尽くすにおいては大差ないと悟ったらしく、もし健康だったら文学以外だと何をやっているだろうか、幼稚園の先生もやってみたいけど財産が少ないし、造林も面白そうだけれど今さら技師の資格も無し、そもそも山も持っていないし・・・と今となっては叶わぬ夢を綴っていた。
生涯に約23,600句もの俳句を詠み、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした正岡子規は明治35年(1902)3月19日、午前1時ごろ死去した。大勢の仲間と門下生に見送られながら旅立った。葬儀は21日に行われ、田端の大龍寺に埋葬された。会葬者150余名。戒名は子規居士。子規は死ぬ直前まで句を残した。
俳句とは春夏秋冬、四季それぞれに趣がある日本ならではのものだと思う。人は春の到来に生命の息吹を感じ、夏の到来に人生の躍動を思い描き、秋に人生の振り返りを重ね合わせ、冬に次の世代への継承を想う。人生同様、その移ろいの何たる美しきことか。人の何倍ものスピードで駆け抜け慌ただしい人生を送った子規ではあったが、最後の最後まで多くの友人同僚に囲まれていた。そして彼の理念は多くの人間に受け継がれた。それはそれで幸せな人生だったのではないかと思う。
■子規庵 台東区根岸
http://www.shikian.or.jp/
■子規の愛した菓子パン|松山市
http://www.pref.ehime.jp/iimono/chuyo/matsuyama_kashipan.html