津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2011年06月

『仰臥漫録』 (岩波文庫) 正岡 子規『仰臥漫録 ぎょうがまんろく』 (岩波文庫) 正岡 子規 明治34年

 

子規の闘病中、東京都根岸の自宅には毎日のように門下生や関係者がお見舞いに訪れた。頻繁に顔を出したのは、新聞『日本』の社長・陸羯南(くがかつなん)、高濱虚子(たかはまきょし)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、寒川鼠骨(さむかわそこつ)、伊藤左千夫(いとうさちお)、坂本四方太(さかもとしほうだ)、五百木飄亭(いおきひょうてい)など、新聞『日本』や俳誌『ホトトギス』の関係者で、特に虚子、碧梧桐、鼠骨の同郷松山出身の門弟3人組などは3日に1回位来ていたのではないか。一門の深い絆と優しさが分かる。

『仰臥漫録』は、『墨汁一滴』連載後の明治34年9月から亡くなる直前まで、新聞連載向けの『病牀六尺』と同時に書き留めておいた日録である。 この頃の子規は寝たきりで自分で寝返りすら打てず、肺はほとんど空洞、身体は膿んで腐って所々穴があき、便の度に凄まじい激痛が体中を突き抜ける。絶叫、号泣、絶叫、時には失神、精神錯乱になり、普通の人は正視できない状態だった。

そのような身体にもかかわらず日記の内容は、天気、食事内容(例えば、朝食・ぬく飯三わん、佃煮、梅干し、牛乳一合(ココア入り)、菓子パン、塩せんべい、昼食・まぐろのさしみ、粥二わん、なら漬け、胡桃煮付、大根もみ、梨一つ、間食・餅菓子二個、菓子パン、塩せんべい、渋茶、晩・きすの魚田二尾、ふきなます二椀、なら漬け、さしみの残り、粥三椀、梨一つ、葡萄一房・・・・)から始まって、便の回数、飲んだ薬、包帯の取替と、誰々が訪ねてきて何を話したとか、日々感じたことや俳句まで、毎日事細かに綴っている。しかも新聞連載用の『病牀六尺』も同時に書きながらである。端から見ると狂気に近い。健康な人間以上の情熱とパワーを持っているのだ。

だから弟子に対しても厳しい。こと俳句の事となると痛烈だ。碧梧桐や四方太などは、稚拙だ、意味が分からない、駄目だ進歩がない、と何度怒られた事か。しかも新聞紙上でだから堪らない。伏してなお厳しである。他にも自分の給料は新聞社から40円とホトトギスから10円の50円だとか、虚子が家賃十六円の所に引っ越したけど自分は六円五十銭だとか、律は理屈っぽくてだめだ言語道断だ、介護も義務的にしかやってくれないとか、まあ我が儘と癇癪なのだが死期が近いと思えばしょうがないのだろう。もっともそう言いつつ時々みんなに感謝したりする。鼠骨のことを「病気の介抱は鼠骨一番上手なり。鼠骨と話し居れば不快の時も遂にうかされて一つ笑ふやうになること常なり。彼は話上手にて談緒多き上に調子の上に一種の滑稽あればつまらぬことも面白く聞かさるること多し」と褒めたり、とにかく人間臭い、愛すべき男だった。

画家の中村不折に影響を受けて始めた果物や草花の挿絵も味わい深い。彼は果物が好物だったから食卓に上がっていた柿や葡萄や梨や、庭に成った糸瓜や夕顔、大好きな菓子パン、原安民からもらった蛙の置物、床屋が持ってきてくれた盆栽など暇を見つけては描いた。どの絵もどこかユーモアがあって微笑ましい感じだ。ちなみに子規は実物を見たままに具象的に写し取る写生を俳句や短歌にも用いた。子規亡き後も碧梧桐、虚子、左千夫によって引き継がれている。角川文庫版の『仰臥漫録』にはカラーで載っているみたいだから見てみると良いと思う。

寝たきりの彼にとって食べる事は唯一の楽しみだった。奥州行脚の時に怪しい宿で食べた酢牡蠣がうまかった、もっと腹一杯食べたい、死ぬまでにもう一度本膳でご馳走が食べてみたいとか、西洋菓子や缶詰が欲しいと言えばすぐ目の前に山ほど出てくるといいなとか、最後に料理屋で作った仕出しを食べたいけれどお金もないから虚子から二十円借りたとか、去年の誕生日にみんな呼んで会食をした思い出とか、外に食べに行きたいとか、同居の妹や母はもちろん見舞客にもしょっちゅう話していたに違いない。だけど恐らくあと半年も生きられないとみんな感じていた。だから子規の妄想がどこかもの悲しい。

子規は子どもの頃、実は太政大臣(今の首相)になりたかったそうだ。けれど最近は大臣も村長も公のために尽くすにおいては大差ないと悟ったらしく、もし健康だったら文学以外だと何をやっているだろうか、幼稚園の先生もやってみたいけど財産が少ないし、造林も面白そうだけれど今さら技師の資格も無し、そもそも山も持っていないし・・・と今となっては叶わぬ夢を綴っていた。

生涯に約23,600句もの俳句を詠み、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした正岡子規は明治35年(1902)3月19日、午前1時ごろ死去した。大勢の仲間と門下生に見送られながら旅立った。葬儀は21日に行われ、田端の大龍寺に埋葬された。会葬者150余名。戒名は子規居士。子規は死ぬ直前まで句を残した。

俳句とは春夏秋冬、四季それぞれに趣がある日本ならではのものだと思う。人は春の到来に生命の息吹を感じ、夏の到来に人生の躍動を思い描き、秋に人生の振り返りを重ね合わせ、冬に次の世代への継承を想う。人生同様、その移ろいの何たる美しきことか。人の何倍ものスピードで駆け抜け慌ただしい人生を送った子規ではあったが、最後の最後まで多くの友人同僚に囲まれていた。そして彼の理念は多くの人間に受け継がれた。それはそれで幸せな人生だったのではないかと思う。

■子規庵 台東区根岸
http://www.shikian.or.jp/

■子規の愛した菓子パン|松山市
http://www.pref.ehime.jp/iimono/chuyo/matsuyama_kashipan.html

 

 

『松蘿玉液』 (岩波文庫) 正岡 子規『松蘿玉液 しょうらぎょくえき』 (岩波文庫) 正岡 子規 明治29年連載開始


日清戦争の従軍記者として中国に渡っていた正岡子規が、帰国途中の船で吐血して危篤になったのは明治28年(1895年)5月のこと。その後しばらく東京と故郷松山で静養していたものの、翌年の明治29年(1896年)4月には、さっそく新聞『日本』において随筆『松蘿玉液』を書き始めた。『松蘿玉液しょうらぎょくえき』とは子規が愛用していた中国産の炭から名付けられたそうである。『病牀六尺』といい『墨汁一滴』といい歌人らしい含蓄或るタイトルである。

当時子規は28歳。すでに歩行にも支障が出始めていたものの、後年に著した『墨汁一滴』『病牀六尺』の病苦と比べると、『松蘿玉液』の頃はまだまだ血気盛んなジャーナリストで、世の中の特に政治に対しては鋭い批評を浴びせている。例えば伊藤博文。利口なやうで愚なのは伊藤候なり。維新の元勲として憲法の起草者としてその力量を現したものの威張りに威張っていると記し、次の矛先は大隈重信に向く。行き届いたやうで行き届かぬは大隈候なり、聞いている人に合わせて演説を変える心配りは感心するも、成功を急ぎすぎるきらいがある、だから条約改正に失敗したのだ、と手厳しい。普通首相経験者に向かって愚かなどとは言わないだろうに。

反面、良いものは良いと認めている。当時文壇に彗星の如く登場した樋口一葉の『たけくらべ』について、「一行読めば一行に驚き一回読めば一回に驚く。西鶴から学び佶屈に失せず平易なる言語を以てこの緊密の文を為すものいまだその比を見ず。笑ひ、泣き、怒りにおいて嬌痴を離れざるは作者の技倆を見るに足る。一葉とは何者ぞ」と手放しで絶賛している。女性に厳しい子規にしては珍しいことである。ただ残念な事に樋口一葉はこの半年後に肺結核にて24歳の若さで亡くなってしまう。果たして同じ病に冒された同士、子規と一葉は面談する事が出来たのであろうか。気になるところだ。

5月18日の「鴎外漁史」と題した記事では、当時文壇から生意気だと攻撃されていた森鴎外のことを、「自分(子規自身)は無学だけれども、それでもこの件は筋も理屈も通っていない攻撃だという事くらいわかる」と紙面で擁護し、「別に鴎外をさほどえらい者とも知らざりしをへっぽこ文学者はかへって鴎外の名を成したり」とあざ笑う。当時破竹の勢いとも思われた鴎外の意外な苦境を知ると同時に、飛び出た者を叩こうとする国民性がすでにこの頃からあるのかと驚きもする。

本著には日本人で初めてベースボールを日本語訳した有名な話も載っている。このエッセイは出色の出来だと思う。野球を知らない当時の日本人に対してゲームの運営方法やルールを事細かにこれでもかという位に説明している。しかしこれを読むと野球というものは、攻撃と守りではポジションも役割も全く違うし、ボールとプレイヤーを並行して追わなければならないし、テニスやサッカー、相撲に比べて随分複雑なスポーツだという事に気づく。子規は複雑なスポーツの方が見ていても面白いと述べている。

子規曰く、遊技に必要なものは「およそ千坪ばかりの平坦な地面、皮に包んだ小さな球、それを撃つ木の棒、座布団のようなベース、キャッチャーの後方に張る球を遮る網・・・」である(笑)。さらに、球は一個だけ。それも球は常に防者の手にあり。この球こそ遊技の中心になるものにしてその行方が遊技の中心である。打者走者のみならず傍観者(守っている人)も球に注目する。ピッチャーは本基(ホームベース)に向かって投ず。打者一人が木の棒を持って立つ。球が正当な位置(本基の上を通過し、かつ肩より高からず膝より低からず)を通ったら、打者は撃たざるべからず。棒が球に触れて線の中に落ちたら、木の棒を捨てて、第一基(一塁のこと)に向かって一直線に走る。この時打者は走者となる・・・・・・・・・。

と、見事な説明である。「木の棒を捨てて、一直線に走る」などの説明は今見ると滑稽でもあり実に面白い。『JIN-仁-』という人気のタイムスリップドラマがあるけれど、主人公の南方仁が野球というものを全く知らない坂本龍馬にルールを説明していると想像すれば、説明の大変さがよりイメージ出来るかもしれない。あまのじゃくの坂本龍馬はきっと「なぜ木の棒を捨てなければならんのじゃ。俺は武士だから持って走っては駄目なのか」とか言うだろう。それを聞いた南方仁は「こんなところから説明しなければならないと思うと、いつ終わるのか・・目まいがする」と多分思うはず。人にわかりやすく説明するのは難しい。それを文章だけで説明した正岡子規は正に神懸かりであろう。

子規晩年の四大随筆の一つと言われるこの『松蘿玉液』は、4つの中で最も若かりし頃に書かれたもので、他の作品同様、彼の良いところも悪いところも、素晴らしいところも全て、清濁併せのむでは無いが、子規の人生そのものが凝縮されている。あたかもすぐそこに正岡子規がいるような錯覚を起こし、去年そこで会ったような親近感を持つ。彼の人徳なのであろう。また兄を看病した妹の正岡律にもエールを送りたい。気難しい子規だから相当苦労しただろう。「律は人の情けがわからない女だ」など、新聞紙上で書かれた時はうんざりだったと思う。それでも最後まで面倒をみた。後世のファンにとってせめてもの救いは彼女だけは病に倒れることなく子規の分と合わせて71歳まで生きてくれたこと。良かったと思う。

 

 

『破戒』 (新潮文庫) 島崎 藤村『破戒』 (新潮文庫) 島崎 藤村 明治39年発表

詩集『若菜集』で文壇に登場した島崎藤村は明治39年(1906年)、7年の歳月をかけて『破戒』を完成させた。既存出版業界と作家のあり方に疑問を持っていた藤村は自費出版を決意、函館にいる妻の実父や同郷出身の銀行家神津猛から資金の援助を受けて出版にこぎ着けた。

『破戒』は、「日本の創作界に新生面を拓いた」と大きな反響を呼び、半年後には再刷が出るほどの人気を博した。失敗すれば家族共々路頭に迷うしかなかった彼にとって起死回生の事だった。この成功によって藤村は新しい小説家としての地位を確保、田山花袋、島村抱月らと自然主義文学の一時代を築いた。ただ差別という日本の暗部を取り上げた本著は、発売と同時に各方面で物議を醸し、一時は絶版にもなるが、藤村は刊行の度に訂正に応じて再販に奔走、現在に至っている。

『破戒』は、部落出身の苦悩を心の奥底に抱えていた教員瀬川丑松が、父から「決して(出自を)打ち明けるな」と強い戒めを受けていたにもかかわらず、出自を同じくする人権思想家猪子蓮太郎の生き方に感銘を受け、苦悩からの開放と自分らしい生き方を求めて全員の前で打ち明けることを決意、退職をして新天地のアメリカへと旅立つという内容である。

中学校の授業で受けた同和教育で多少はこの問題を理解していたものの、この時代に起こっていた差別の恐ろしさをあらためて思う。その事がわかった瞬間に仕事を失い、名誉も失う、下宿先すら追い出されてしまうなど凄まじい限りである。なぜそこまで市井の人がそこまで嫌悪を抱くのかわからないけれど、この問題は平成の現在も、昔ほどでは無いにせよ、いまだどこかで起きているのかもしれない。

人間は誰しも強くない。むしろ弱い生き物である。自分より弱い立場の人を見つけることで、自身の心の安堵と身の安全を保とうとする感情がある。集団においてその本能は顕著になり、古来多くの悲劇を生み出してきた。人種問題や民族問題、宗教問題、江戸時代の士農工商制度もそう、狭い括りでは会社や学校、仲間同士のいじめなども同様である。時の為政者が不満の矛先が自身に向かぬよう迫害する事もあるだろうし、集団の中で自分が虐げられるという恐怖や優れた者への嫉妬や怨念が、人間の正しい感情を麻痺させ、因業へと走らせる事もあるだろう。結果同じ人間同士にもかかわらず悲劇が起きてしまう。

瀬川丑松の場合はさらに痛ましい。師範大学を優秀な成績で卒業し、学校の中でも上を目指せる位置にあった彼は、闊達な性格で生徒からの信望も厚かった。しかし心の中ではいつも恐怖を抱えていた。父親から受けていた厳しい戒めも然り、学校から追放されてしまうかもしれない恐怖、自ら告白した猪子のような堂々とした生き方への憧れ、真実を伏せておく事で得られる安堵感。この相反する感情が揺れ動いていたが、自分の地位が危うくなる事に恐怖感を抱く校長や地元政治家の口から低俗な噂を流され追いつめられる。彼の苦悶は頂点に達した。

しかし告白後も、まわりの友人達の丑松への心情は何ら変わること無かった。それどころか「親の血筋がどんなで御座いましょうと、それは瀬川さんの知った事じゃ御座いますまい。」「確かにそうです。あの男の知った事では無いんです・・・」と、自分たちの身も危うくなる雰囲気の時代に、むしろ積極的に応援した友人教師の銀之助やお志保、蓮花寺の人々、市村弁護士らの深く尊い愛情に、丑松だけではなく、私たち読者も心底救われた気持ちになるのだ。

この世に生まれてきた全ての人間が、本来持ち合わせている他人への思いやりや慈しみの情を、私たち読者はあらためて知り、そして気付く。このような事がまかり通る世の中は決して良いものでは無く、自ら人を貶めるような真似はしないようにしよう、もし不幸にも自分達のまわりにそのような事が起こって、仮に周囲が好ましくない雰囲気になっていたとしても、せめて自分だけはまわりに迎合せずに、正しいと思った気持ちを押し通してみよう、と小さな勇気を持った事に。

■藤村記念館 (藤村の出身地・岐阜県中津川市馬籠)
http://toson.kisoji.org/

『墨汁一滴』 (岩波文庫) 正岡 子規『墨汁一滴 ぼくじゅういってき』 (岩波文庫) 正岡 子規  明治34年連載


正岡子規が晩年に残した随筆の一つである『墨汁一滴』は、亡くなる前年の明治34年(1901年)1月16日から7月2日までの約半年間、新聞『日本』に連載されたもので、脊椎カリエスを患っていた子規はすでに起きあがる事すらままならず、ほとんど寝たきりの状態で執筆した。

連載の経緯について子規は1月24日に、「かくては生けるかひもなし。はた如何にして病の牀のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終に墨汁一滴といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限とし短き派十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんとかとなり。・・・・」と、墨汁一滴で書ける程度の短いもので、その時感じたものを書いてみたいと思った、と述べている。残された短い命をひとしずくひとしずくに凝縮して残そうとしたのだろう。

それにしてもこのみずみずしい文章は本当に自分の余命が幾ばくもないとわかっていた男が書いたものなのであろうか。そう思えるほど本著の中の子規は自身の身の回りに囚われる事なく、広い世界観を持って現在の俳句界や文壇、世の中に対しての鋭い批評やユーモラスに溢れたコメント、友人、郷里松山、後輩への想いを心のありのままに描いている。そこからは虚無的な厭世観や嫌味さは全く感じず、むしろ子規の厳しくも優しい「人となり」が読者の心の内部まで伝わってくるのだ。この一連の著書が今も高い評価を受けている理由だと思う。


誰でも死は怖い。子規もふと弱音を漏らす。「人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。・・・・・(1/31)」と、悲しいかな年々小さくなっている自分の希望を嘆き、今は「とにかく生きたい」という願いが深々と伝わってくる。

今回一番強く感じた子規の友人への想いを書いておこうと思う。

一人は東京大学時代に同窓で友人だった夏目漱石である。子規と漱石は同い年で無二の親友だから本著にもよく登場する。それがまたユーモラスで面白いのだ。「我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したのは漱石なり」と、普段はまじめで生徒(漱石は当時先生だった)に対して厳格だった漱石を茶化したり(1/30)、漱石の自宅を訪問した子規が、2人で自宅近くの早稲田の田圃道を散歩していた際に「この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったことである・・」とお米が田圃から取れる事すら知らない東京育ちの漱石はしょうがないと嘆いていたり(5/30)、子規が明治24年の学末試験の時に泊まった埼玉大宮の万松楼という宿屋が、雰囲気も良く、飯もうまいので漱石を呼び出して一晩遊んだこと(6/16)など、興味の尽きないエピソードが載っている。漱石が『吾輩は猫である』でデビューしたのは子規亡きあとの明治38年だから、子規はその後漱石がどれだけ偉大になるかを知らない。生きていれば一番喜んだのは子規であろうし、良いライバルとして切磋琢磨したであろうと思うのだ。人生の切なさを感じる。ちなみに大宮の万松楼が現存するか調べてみたのだが今はもうないようだ。残念である。

もう一人は画家・書家の中村不折(なかむらふせつ)で、新聞紙上に6/25から5日間もの間、一人の友人への想いを綴っている。中村不折は子規の一つ上。明治27年(1894年)に勃発した日清戦争で子規が従軍記者として中国へ行った際に、挿絵画担当として新聞『日本』に同行したのが中村不折であった。今でこそ不折は『吾輩は猫である』や『野菊の墓』の挿絵画家、新宿中村屋や清酒真澄のロゴを作った男として有名ではあるが、当時は無論無名で、戦争で寝食を共にした2人は、帰国後も互いに交流を育んでいた。その中村不折がパリへ自費で勉強に行く事になり、エール、餞別として子規は新聞紙上で、彼への想いを伝えたのだった。子規は寝たきりで港へ見送りにも行けない、晩餐会も開いてあげる事も出来ないからだ。

この思いやり溢れるくだりは読んでいてジーンと来る。戦争から帰国後、記者の子規が仕事として、中村不折に新聞記事の挿絵を頼んだところ、不折は一を聞いて十を知るではないけれど、発注者が意図する以上の完璧な絵を出してきた。常日頃、何度説明しても要求の半分程度しか満たして来ない画家というものに嫌気が指していた子規は、驚きそして感動する。その絵を新聞社の同僚に見せたところみんな驚く。文句なしで新聞に掲載された。それが縁で不折は新聞『日本』のお抱え画家として実力を発揮していく。フリー画家の不折はお金が無く、その日の夕食のお米すら困窮していたが、勤勉な信州出身の不折らしく勉強を怠らなかった。昼間は勉強で写生に出かけ、夜は新聞の仕事を手がけていた。当時の画家はルーズで納期というものを全く守らないのに不折はきっちり仕上げてきた。

ある時、不折は長期の重要な仕事を受ける事になった。3週間も赤城山にこもって懸命に絵を描き、帰京後、発注者にその絵を見せたところ「駄目だこんなもの。今からまた赤城山に1週間行って書き直してこい!」と怒鳴られた。普通の画家なら怒り狂うはずで、それを横で見ていた子規はハラハラしていた。不折は怒りで声が震えながらもグッと堪えて、次の日キャンバスを持ってまた赤城へ行った。子規はその不撓不屈の精神に驚き、彼を心底認めたのだった。結局、その作品は「淡煙」と題して宮内庁御用品になったそうである。彼は不折は他の画家と違って収入があっても全て貯金していた。殆どの画家が収入があると飲んでいった時代である。そして彼は、当時のほとんどの人間が国費で留学していたヨーロッパに、自分でお金を貯めてフランスに留学した。その頃の不折はすでに名前も売れている画家になっていた。正岡子規は友人として、余命幾ばくもない一人の詩人として、そして新聞『日本』の元同僚として、フランスへ旅立つ彼に戒めの言葉を、新聞紙上で公開した。

※或る程度現代文に訳す。「剛慢なるは善し。弱者後輩を軽蔑するなかれ。君は耳遠きがために(不折は耳が悪かった)人の話を誤解する事多し。注意を要す。(少しほめたのに大いにほめたように思う過ちが君は多い) 誰か二人で話している時に突然横合いから口を出さないように注意しなさい。そして余り浮かれるな。君の絵の嗜好を見ると大きく壮大に書こうとするのはわかる。でも発注者がそう求めておらず少し詳細に書いて欲しい事もある。独りよがりにならず注意せよ。だからと言って君の持ち味の大景を捨てて小景を描けと言っているわけではない。君に直接言っても喧嘩になるだろうから、紙面で注意しておくよ。君の嗜好に固執するな。西洋へ行っても勉強せずに見物してくれば十分だろう。向こうのご馳走を食べて太ればそれに勝るおみやげ無し。余りあくせくと勉強して上手にならないでくれよ」と子規は書いた。

これが死期間近の人間のメッセージだろうか。この時の子規は排泄すらままならず、病床の上で寝たきりだった。医者からあと半年も持たないとも言われていた。そんな時にも友人の渡欧という晴れ舞台だからと、思いやり溢れる言葉を届けてあげる。私はここに正岡子規という人間の温かさが凝縮されていると思うのだ。

子規がこのメッセージを書いたのが1901年6月29日。中村不折がフランスでラファエル・コランから指導を受け帰国したのが1905年。正岡子規が息を引き取ったのが1902年9月19日。子規は大きく成長した親友・中村不折の姿を見ることなくこの世を去った。

■墨汁一滴 青空文庫
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『江戸川乱歩傑作選』 (新潮文庫) 江戸川 乱歩『江戸川乱歩傑作選』 (新潮文庫) 江戸川 乱歩 大正12年に『二銭銅貨』を発表


私は子どもの頃、少年向け推理小説の大ファンだった。乱歩やドイル、ルブラン、クリスティーなどが好きで、特に柳瀬茂がカバー絵を描いたポプラ社の乱歩シリーズは『透明怪人』『怪人二十面相』『少年探偵団』『青銅の魔人』『奇面城の秘密』『地底の魔術王』など片っ端から読んだ。名探偵明智小五郎と小林少年の少年探偵団と怪人二十面相の対決は興奮もので、余りにも熱中しすぎた私は、友達数人と地域を救うために「少年探偵団」を結成した位である。何か事件は無いか、困っている人はいないかと町中うろうろと歩き回ったが、残念なことに事件には全く遭遇しなかった。

日本のミステリー小説の草分けである江戸川乱歩は、明治27年(1894年)に三重県で生まれた。直接関係ないけれどトヨタ自動車創業者の豊田 喜一郎や松下幸之助と同い年なのだそうだ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、大阪の南洋貿易会社に就職するが程なく退社、その後は古本屋や志那そば屋など、職を転々としていた。大正12年(1923年)にデビュー作『二銭銅貨』を発表。学生時代より読みあさっていたエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルの影響を受け、今でこそ推理小説は市民権を得ているものの、純文学が主流だった当時の文壇では相手にされていなかった「探偵小説」を書き下ろした。周囲からの賞賛に自信を持った乱歩は、その後も暗号やトリックを使った短編を立て続けに発表していく。『二銭銅貨』や『心理試験』の文中に出てくる「暗号表」「結果表」も当時としては画期的な試みだったと思う。

新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』には、初期の乱歩を代表する『二銭銅貨』『二癈人』『D坂の殺人事件』『心理試験』『赤い部屋』『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』『芋虫』の9編が収められている。前述の少年シリーズが子ども向けに書かれているのに対して、本著は大人も読み応えがある内容になっている。大体タイトルからしておどろおどろしく妖艶である。

『二癈人』は、幼少の頃からの夢遊病癖がひどくなり、どこからかものを盗ってくるようになった事を苦悩していた井原が、ついに下宿内で無意識のうちに殺人を犯してしまう話。湯治場で見知らぬ男にその話を打ち明けたあとに、彼は驚愕の話を聞かされる。主人公とその相手の立場が二転三転していく展開は『二銭銅貨』にも見られる。

『D坂の殺人事件』『心理試験』は、若かりし頃の明智小五郎が登場する。『D坂・・』は日本初の密室殺人と言われ、古本屋でおきたある殺人事件に明智の推理が冴え渡る。『心理・・』で被疑者の蕗屋、斉藤に用いられた連想診断は実に面白い。心理私見の提唱者デ・キロスやミュンスターベルの補足がトリックをより深いものにしている。

『人間椅子』は、顔は醜くも有能な椅子職人だった男がある日、日頃から抱いていた妄想と現実の区別が付かなくなり、押さえきれない衝動に襲われて、常軌を逸した行動に出る話。こんな事が実際にあったらと、想像するだけで鳥肌がぶつぶつ立ってくる。推理小説というより寒気のする怪奇小説である。『赤い部屋』の妄想話とも似ている。

乱歩作品には大まかに分けていくつかの傾向がある。一つは『D坂の殺人事件』や『心理試験』のように乱歩の暗号など豊富なトリック知識を生かした、若かりし頃の明智小五郎が出てきて解決へ導く比較的ストレートな推理作品。二つ目は『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』『芋虫』など、常人の想像を超えた嗜好・偏執癖を、本当にあった事のように描く怪奇的なグロテスク小説。三つ目は今回の作品には収められていないが二十面相に代表される子ども向け作品。鼈甲縁の目がねとピンした口ひげを付けた変装や暗くなった瞬間に煙のように忽然と姿を消してしまうような展開は荒唐無稽だとか子供騙しだなどと言われてはいるものやはり面白い。四つ目はその他の海外作品の翻訳や個人的な随筆などである。

こうやって分類してみても、江戸川乱歩という作家は、どこか捉えどころが無く、どれが実体なのかよくわからない。彼の自宅書斎には井原西鶴や吉田兼好など多数の古典原本や海外の探偵小説があったようであるし、犯罪心理学の知識も豊富であった。翻訳をしていた位だから難解な海外蔵書も楽に読めただろう。彼が生涯にわたって遺した何百という著書は、彼の豊富な知識と常人の想像を超える想像力、空想力いや夢想力か、が渾然と融合し合い、生み出されたものだと思える。だからこそ日本においてミステリーという新しい分野のパイオニアとなり得たのだろう。

 

 

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