『後白河院』 (新潮文庫) 井上 靖 昭和39年発表
後白河院は平家と源氏が争いを繰り広げた時代の天皇で、鳥羽天皇の子息として1127年に生まれた。平清盛が1118年生まれなのでほぼ同年代でもある。20代後半に第77代の皇位を継いだものの、わずか3年間で二条天皇に譲り、その後も五条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と、30数年間に渡って院政を敷き、66歳で崩御されるまで現役で政治をおこなった。
井上靖が描くこの『後白河院』の特徴は、第一部が平信範、第二部が建春門院中納言、第三部が吉田経房、第四部が九条兼実という、当時側近として仕えていた4名の回想によって著されている点で、立場の違うそれぞれ回顧の中に井上靖の歴史に対する深い洞察を織り交ぜたこの手法は、まるで当時の本物のインタビューを聞いているような錯覚に陥ってしまう。私たちの中に約1,000年前の後白河院が実に鮮やかに登場するのだ。
中でも特に面白いのは第四部の兼実。彼は公家の最高位である関白や太政大臣を務めた見識高い人物として有名で、35年に渡って当時の史実を書き続けた日記『玉葉』の作者でもある。吉川英治作品にもよく登場する貴重な文献だ。彼の後白河院に対する緩やかな批評と客観的な疑問、ユーモアが、私たちの貧弱な想像力をより豊かなものへ後押ししてくれる。
院は希代の政略家と言われた。「日本国第一の大天狗は更に他者に非ず候か」この有名な言葉は、後白河院が義経に頼朝追討の命令を出してすぐ、舌の根も乾かぬうちに、今度は鎌倉の頼朝に「いや追討命令は本意では無かった」と送った弁明に対して、激怒した頼朝からの返礼である。あなたこそが慢心の権化で日本一の魔物だと頼朝は言ったのである。
悪く言えば右へ左へと動き回り、人々を翻弄する、乱世と政略が好きなお方。清盛、義仲、義経、頼朝など当時台頭し始めた武門一家への無節操で姑息(その場しのぎ)とも言える院宣を乱発し、長期院政による二重権力で組織を硬直化させ、政治に混乱をもたらした人物だったらしい。
ただ一方、古来、神武天皇より続く帝制度を途切れさせる訳にはいかず、暴力装置という従来は無かった強大な力を持った武門をうまく使いこなしながら、国を統治して行くには、姿勢の揺れは致し方無かったのかもしれない。常に表情を殺し大きな声を上げる事も無かったと言われる院。外から伺い知ることの出来なかった後白河院の深意はそこにあったのだろうか。