津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

2011年02月

『後白河院』 (新潮文庫) 井上 靖『後白河院』 (新潮文庫) 井上 靖 昭和39年発表

後白河院は平家と源氏が争いを繰り広げた時代の天皇で、鳥羽天皇の子息として1127年に生まれた。平清盛が1118年生まれなのでほぼ同年代でもある。20代後半に第77代の皇位を継いだものの、わずか3年間で二条天皇に譲り、その後も五条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と、30数年間に渡って院政を敷き、66歳で崩御されるまで現役で政治をおこなった。

井上靖が描くこの『後白河院』の特徴は、第一部が平信範、第二部が建春門院中納言、第三部が吉田経房、第四部が九条兼実という、当時側近として仕えていた4名の回想によって著されている点で、立場の違うそれぞれ回顧の中に井上靖の歴史に対する深い洞察を織り交ぜたこの手法は、まるで当時の本物のインタビューを聞いているような錯覚に陥ってしまう。私たちの中に約1,000年前の後白河院が実に鮮やかに登場するのだ。

中でも特に面白いのは第四部の兼実。彼は公家の最高位である関白や太政大臣を務めた見識高い人物として有名で、35年に渡って当時の史実を書き続けた日記『玉葉』の作者でもある。吉川英治作品にもよく登場する貴重な文献だ。彼の後白河院に対する緩やかな批評と客観的な疑問、ユーモアが、私たちの貧弱な想像力をより豊かなものへ後押ししてくれる。

院は希代の政略家と言われた。「日本国第一の大天狗は更に他者に非ず候か」この有名な言葉は、後白河院が義経に頼朝追討の命令を出してすぐ、舌の根も乾かぬうちに、今度は鎌倉の頼朝に「いや追討命令は本意では無かった」と送った弁明に対して、激怒した頼朝からの返礼である。あなたこそが慢心の権化で日本一の魔物だと頼朝は言ったのである。

悪く言えば右へ左へと動き回り、人々を翻弄する、乱世と政略が好きなお方。清盛、義仲、義経、頼朝など当時台頭し始めた武門一家への無節操で姑息(その場しのぎ)とも言える院宣を乱発し、長期院政による二重権力で組織を硬直化させ、政治に混乱をもたらした人物だったらしい。

ただ一方、古来、神武天皇より続く帝制度を途切れさせる訳にはいかず、暴力装置という従来は無かった強大な力を持った武門をうまく使いこなしながら、国を統治して行くには、姿勢の揺れは致し方無かったのかもしれない。常に表情を殺し大きな声を上げる事も無かったと言われる院。外から伺い知ることの出来なかった後白河院の深意はそこにあったのだろうか。

『源頼朝』(全2巻) (吉川英治歴史時代文庫・講談社)

『源頼朝』(全2巻) (吉川英治歴史時代文庫・講談社)  昭和16年発表

吉川英治が『源頼朝』を朝日新聞に発表したのは昭和16年、名作『新・平家物語』を著す10年前の事だ。武家政権を一代で築いた頼朝だが、単独の武勇は驚くほど少なく、源氏蜂起の際に神奈川の石橋で平家と戦った位で、後は鎌倉に引きこもりほとんど戦場には出ていない。平家に替わって京を制圧したのは木曽源氏義仲であるし、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平家にとどめを刺したのは義経、梶原景時だった。奥州藤原氏を滅ぼす際も然りだ。彼はただひたすら新しい政権づくりに腐心していた。朝廷から人事権と土地管理を奪い取るという平家ですら成しえなかった強固な幕府を目指したのだ。

頼朝は自分を頂点とした組織論理に拘った。当時、戦と言えばあくまでも個人が中心で、誰よりも早く首を捕って勝ち名乗りをあげる事が最大の武勇だった時代に、彼は突出した個人の出現を絶対に許さなかった。平家が「大きな家族」的で身内を重用した比較的穏やかな政権運営をおこなっていたのに対し、頼朝は血縁間で殺略が絶えなかった源氏の系譜的連鎖に恐怖感を抱いていたのだろう、最終的に義経、義仲、行家など功績をあげた兄弟親族は全て殺害してしまっている。彼が陰性で冷酷非情だと言われる所以だ。

源氏は平家を徐々に追い込んでいく。そしてついに壇ノ浦で平家を滅ぼし、歴史上初めての武家政権を成立させた。旗揚げからわずか10年の事である。時流という運も大きく味方したと思う。出発点はわずか数百名であったが、平家一門の繁栄を苦々しく思う輩も多かったのだろう、平氏から源氏に乗り替える武族は予想以上であった。清盛という希代の武将によって栄華を誇った平家も、実際は争いを好まぬ家族集団であり、非情な武士集団の源氏には敵うべくもなかった。

社会の教科書では有名な源頼朝だが、義経の一件然り、私は冷酷で陰湿な彼をどうも好きになれない。彼が政権発足後わずか数年で落馬によって急逝したのも、因果応報などと思ってしまうのだ。ただ源氏の御旗の元に、板東の荒武者を理念によって束ね、次々に戦場へと送りこむ力には凄まじいカリスマ性を感じるし、その後この幕府を踏襲した政治が約700年続いた事を考えるとその政治構成力にも敬服せざるを得ない。

頼朝関連:『新・平家物語』(全16巻) (吉川英治歴史時代文庫・講談社)

頼朝関連:『源平盛衰記』 (勉誠出版) 菊池 寛
頼朝関連:『北条政子』 (文春文庫) 永井 路子
頼朝関連:『義経』〈上・下〉(文春文庫) 司馬 遼太郎
頼朝関連:『炎環』 (文春文庫) 永井 路子

『新・平家物語』(全16巻) (吉川英治歴史時代文庫・講談社)

『新・平家物語』(全16巻) (吉川英治歴史時代文庫・講談社)  昭和25年~週刊朝日発表

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ

この有名な序文から始まる『古典・平家物語』は、平安時代末期に起きた源平の争いを舞台に、世の中の儚さや皮肉、人間の愛憎や愚かさが描かれた軍記物語である。吉川英治はその『古典平家』のみならず『源平盛衰記』『玉葉』『吾妻鏡』など同時代の古典と独自の考察を取り入れて『新・平家物語』を完成させた。週刊朝日での連載は戦後間もない昭和25年から実に7年にも及び、名実ともに吉川英治の代表作となっている。

物語は平清盛が幼少の頃から始まる。約400年続いた藤原氏の貴族政治が綻び出し、武家が徐々に力をつけ始めた頃だ。摂関家の内紛に端を発した保元の乱(1156年)で清盛は、後白河天皇、源氏の義朝(頼朝、義経の父)とともに戦い勝利をおさめる。だがすぐに分裂が起きた。3年後の平治の乱(1159年)で清盛は、源氏義朝と戦い、間一髪で勝利をおさめ、国内での地位を固めた。この2つの争いはいずれも清盛などの武家が仕掛けたものではない。天皇家摂関家の内紛に当時格下だと蔑まれていた武士が利用されたに過ぎないのだ。乱世を起こした戦犯のように言われているが一概に彼らだけが原因ではない。

勝利者がすぐに分裂、紛争を始める様はまるで現代の政治を見るようだ。民主党が勝ったかと思えば、今度は身内で内紛が始まる。人間というのはいつになっても同じ過ちをおかすのだろうとつくづく思ってしまう。古今東西限らず人が大勢集まると、嫉妬、怨嗟、権謀が生まれ、病んだ歯車が回り始める事が多い。

敗戦した源氏は逃げ落ちていく。義朝とその家族と主従も雪山を越え愛知方面を駆け落ちる。しかし平家の追っ手は厳しく、途中で義朝は味方の裏切りにあって殺害され、まだ少年だった頼朝、義経は捉えられて清盛のいる六波羅へ送られてしまう。謁見した清盛は2人を殺そうと思えば殺せたが、その母親の常磐にも惹かれたのだろう、その必要なしで、息子伊豆と鞍馬に流してしまう。これには周りの人間も「なんとお人好しな清盛様・・・」と囁いたという。

時代が過ぎ、頼朝が伊豆に流されてから20数年後、平家栄華の陰で、地方に逃げ落ち、忍び耐えてきた源氏の主従が、頼朝とともに蜂起をする。当初はわずか数百名だったが、神奈川、千葉でそして関東全体に呼びかけ、源氏軍は数万人規模に膨れあがった。鞍馬を脱走してから京都、奥州と転々し、勢力を伸ばしていた義経も兄恋しで、合流した。また別方面からは木曽(現在の長野県)の源氏系・義仲も勢力を伸ばして来る。

義経は一ノ谷の戦い、屋島の戦い、そして有名な壇ノ浦の戦いで勝利をおさめ、平家は全滅した。清盛が世を治めてからわずが20数年後の事だった。源氏は義経のおかげで再び世の中の表舞台に立った。しかし鎌倉にいた頼朝は、類い希なる能力を持ち自分以上の信望を集める義経に恐怖感と嫉妬を抱き、実の弟を破門。討伐命令を下す。兄に追い込まれた義経は絶望の念とともに平泉へ逃げ落ちていく。だが執拗に追いかけてくる頼朝勢によって最期を遂げる。そして頼朝を中心とした鎌倉幕府が誕生した。彼は義経、義仲ほか多くの親族を殺して自分の野望を成し遂げたのである。

冒頭の序文を思い出す。諸行無常とは、三省堂大辞林によると「仏教の基本的教義である三法印の一。この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないこと」とある。その通りでこの物語は栄枯盛衰、実に儚く悲しい。

世評では平家、特に清盛を悪の権化と捉えがちだが、吉川英治の人物の描き方が見事なせいか、滅びた平家の一人一人が本当に愛おしく感じる。悪入道と言われた清盛も涙もろく身内には優しく、実に人間味がある男であったと想像する。その代表的な例が、捕らえた頼朝、義経を温情で伊豆と鞍馬に流したことだろう。結果としてはそれが源氏蜂起の種を残してしまった訳だが、彼はそれも運命と考え悔いる事は無かったと言われる。

清盛亡き後、後を継いだ宗盛、重衡、敦盛、剛毅だった従兄弟の時忠もみんな愛すべき人だった。時忠が指示をした五条大橋での武蔵坊弁慶と義経の戦い、屋島での那須与一の弓矢射、争いごとながらもどこか風流なところがあった。ただ家長の清盛が偉大過ぎたせいか、良く言えば鷹揚、悪く言えば皆が皆おっとりとした性格だったため一ノ谷の戦い、屋島の戦い然り、戦には弱かった。

歴史が繰り返す因果応報も本書の主題である。保元の乱で勝った藤原の信西は敗者を悉く処刑した。当時の世の中は全てそうだった。だが殺された家族の子供は強い恨みを持っていつか復讐を誓う。その遺恨の輪廻は永遠に続き、結局、信西、平家、源氏全て滅んだ。敗者、弱い立場にある人間に対しての無慈悲ともいえるおこないは必ず自身に波及する。決して穏やかな世の中を生むことはないのである。

院政の悪弊も強く感じる。現代の世の中で言えば一線を退いた経営者や首相が権力を握って陰で動くこと。政略好きな後白河院の権謀によって平家、源氏、数多くの市井の人が命を落としたことか。人間年をとればとるほど権力にしがみつこうとする。源平の争いを巻き起こしたのも、後白河院の動きが根本にあると言っていいかもしれない。

『新・平家物語』全16巻を読み終えるのに2ヶ月かかった。恐らく私がこれまで読んだ本の中でも五本の指に入ると思う。吉川英治の独特の言い回しと語彙は少々読みづらかったものの、読後なぜか寂しさが心の中を覆うようになった。もう一度あの愛すべき平家の人たちに会いたい、彼らの生きた世界をもっと深く感じてみたい、清盛、義経、時忠、常磐御前、奥州の吉次、朱鼻の伴卜と話したい。そう思った。 

 

平家関連:『源平盛衰記』 (勉誠出版) 菊池 寛
平家関連:『北条政子』 (文春文庫) 永井 路子
平家関連:『義経』〈上・下〉(文春文庫) 司馬 遼太郎
平家関連:『炎環』 (文春文庫) 永井 路子

 

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