津田宣秋のブログ|読書レビュー

ツアーオンライン株式会社(東京都立川市)代表取締役津田宣秋の読んだ本の感想が中心のブログです。森鴎外、井伏鱒二、吉川英治、菊池寛が好きです。ホームページ制作やサーバー、温泉ガイドぽかなび.jpの運営を行っています。書評レビュー。

『歎異抄』 (ちくま学芸文庫) 阿満 利麿浄土真宗宗祖親鸞の教えが書き記された「歎異抄」。おそらく世の中で最も読まれている宗教書だろう。歎異とは「違いを嘆くこと」。親鸞亡き後20数年を経て、聖人の教えとは異なった解釈が広まるのを嘆いた唯円が、「本願念仏」の本旨を後世永久に伝えるために書いたとされる。今も私たちを魅了してやまない代表的古典である。

ちくま学芸文庫の本書は明治学院大学名誉教授の阿満利麿が現代語訳と解説を担当。阿満氏は京大卒後、NHKに入局。その後、宗教学者へと転じたという経歴の持ち主で、宗教関係、特に法然と親鸞の教えに内在する原意をわかりやすく示した著書が多数。以前取り上げた角川書店の法然「選択本願念仏集」も同氏によるものだ。

さて「歎異抄」だが構成は全十八章から成っている。唯円が書を著すに至った理由を述べる序文から始まり、第一章から第九章では親鸞思想の要諦となる語録を紹介し、第十章から第十八章では誤った解釈や言動の数々を俎上に載せて親鸞の真意を教え諭す。そして最後は正しい信心への切なる願いを込めた結文で終える。

親鸞の教えとはどういうものなのか。それは法然の教えと同じであるといってもいいだろう。法然が「ただ南無阿弥陀仏と一心に唱えるだけで人は浄土へ行ける」と説いた「本願念仏」、そして「老少善悪のひとをえらばれず」「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがため」と、弥陀の本願には老人も若者も、善人も悪人も、階級も貧富も関係ないという平等性が二人の共通した「思想」であった。

親鸞特有の解釈としては、よく「悪人」というキーワードが挙げられる。第三章の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと」「悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」のあたりである。

悪人とは悪事を働く人間を指すのか。では善行を重ねた者が報われないではないか。確かに法然は従来の思想では浄土に行くことが難しいと言われていた、人を殺す職業の武士も家畜や魚を殺す人も善悪は一切関係ないと説いた。しかし親鸞はさらに一歩押し進め、人間とは煩悩を絶対に消すことの出来ない生き物なのであり、いわば私欲にまみれた凡夫、悪人である、阿弥陀はそんな人間こそ救ってくれるのだと定義した。ここは少し難しい。この意味について訳者の阿満は「親鸞のいう悪人とは世間一般の道徳的な善悪ではなく、人間の中に潜む煩悩、エゴイズムであろう」と説明する。つまり「善」を持つものは「仏」しかいない。人間は全て「悪人」と言える。そんな利己的な性質を持つ人間こそ必ず仏になれると親鸞は言っているのだ。

また個人個人の心の持ち様にも深く入り込んでいる事にも注目したい。特に現代宗教はともすれば教祖崇拝、教団崇拝に力点が置かれる事が多いが、親鸞は生涯に渡って教団も弟子も持つことは無かった。孤高と呼ばれる由縁だ。信者がその理由を尋ねると親鸞は「わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせふらはばこそ・・(第六章)」と、私の計らいで人を仏に導くことが出来るなら良いが、それは出来ない、専修念仏において人は阿弥陀仏の促しによってのみ仏になるのだから、わが弟子などということはまことに尊大だと答えている。

これは晩年よく言っていた「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人のためなりけり」の考えと通ずる。他人を救うことはできない、自分がこれまでやってきた事は自分自身のためだったと親鸞はいう。一見利己的で突き放したようにも聞こえるが、「念仏とは他者のためではなく、自分が仏になるためのもの」「死後、浄土の世界で自分が仏になって多くの人を救えばよい」を聞くと何となく納得がいくだろう。信心とは一人一人のものなのだ。普段の生活の中で各々が念仏を唱えればいいのだ。出家する必要もないし、凡夫には到底無理な苦行をする必要もない。ただひたすら信じて唱えれば阿弥陀の力によって、自身の中にある「信心」が萌芽し、前進出来るのだと言う。

物質と情報が大量に溢れGNPでも世界有数を誇る経済大国日本。宗教とは最も縁遠い時代のようにも思える。しかし人生は順風満帆なことばかりではない。むしろ理不尽なことの方が多い。世界を見渡してみれば、殺人事件、交通事故、地震、津波などの自然災害、原発などの人的災害が絶え間なく起きている。私たちは自分ひとりの力では如何ともし難い災難や不幸に直面した時、どうすれば良いのかわからなくなる。そしてやり場の無い怒りや絶望、無力感に苛まれる。肉親や愛する人を失った時はなおさらだろう。

そんな苦しいときに人は「矛盾や不条理を自覚した時に「仏」というあり方に惹かれる」と著者はいう。そして人は人生の安らぎ、ゆとり、自信、余裕を求めて「無碍の一道」を歩み出す。弛まない「信心」の結果、一人一人の幸せを見出すのである。

『大久保利通』 (講談社学術文庫) 佐々木 克

1878年(明治11年)5月14日はどんよりとした曇り空だった。その日、閣議出席のため赤坂仮御所に馬車で向かっていた大久保は途中、紀尾井坂において石川県士族島田一郎ら6名に襲撃され、非業の死を遂げる。大政奉還から10年、大久保の志は暴力によって絶たれた。享年47才9ヶ月であった。

大久保の暗殺は事件性としてはもちろん政府にも大きな衝撃を与えた。彼が務めていた内務卿は現在でいえば首相に等しい。いや財政、司法などを除くその殆どを掌握していたことを考えると、むしろそれ以上だろう。組織などは殆ど固まっていない時代である。日本の政治は大久保を中心に動いていたといっても良く、政権の混乱ぶりは想像に難くない。

その一方で、少人数で政治を進めるやり方に不満を持つ者も少なからずいた。秩禄放棄や版籍奉還によって既得権が喪失した士族は特にそうであった。暗殺を実行した島田にとっても大久保とは許せない敵そのものであり、所持していた斬奸状(悪者をきり殺すについて、その理由を書いた文書)には、「公議杜絶、民権抑圧、政事私す」「慨忠節士疎斥、憂国敵愾徒嫌疑、内乱醸成す」と悪政を批判し、斬るべき奸魁として大久保らの名前が挙げられていた。

あらゆる情実を排して国家改革を断行した大久保には「冷酷」のイメージが付きまとう。しかし本当にそうなのだろうか。大久保はどんな人物だったのだろう。本書は、大久保の死から30年を経て、報知新聞の記者だった松原致遠が、生前の大久保と交流のあった人物を訪問取材し、思い出や逸話をほぼそのままの形でまとめた「大久保人物像」である。記事は新聞紙上には1910年(明治43年)から翌年までの約半年間に渡って連載された。

取材に応じたのは大久保の次男牧野伸顕や三男利武、三人の実妹、さらに内務省の部下や岩倉使節団に同行した者、大隈重信など実に23名にものぼる。ある人物を上司や部下、関係者などが評することで、客観性・公平性を求める「360度評価」という方法があるが、本書の場合も松原氏のリードによって引き出された逸話が大久保利通の素顔を浮かび上がらせることに成功している。相手の表情や仕草まで押さえて臨場感を出しているあたりはさすが記者である。当時の内情を知る資料としても一級。実に読み応えのある証言集となっている。

「大久保公はどんな人でしたか」との問いに、ほぼ全員が口を揃えて「とにかく怖かった」と答える。本人も苦笑だろう。寡黙にして峻厳、ほとんど笑わず、いつも煙草を吹かしていた。事務所はいつもシーンと物音一つしない。身体全体から発せられるその威厳たるや相当なもので、伊藤博文や大隈重信も前に立つと緊張してろくに話せなかったらしい。

仕事の報告をすると、黙ったまま聞いて「話はそれだけですか」「よろしい」で終わり。または「それは駄目です」の一言。怖いからそれ以上何も言えない。しかし良いと思ったら、後で即座に指示を出し実行した。たとえ目下の者であろうと人の話は良く聞き、いったん了承したら後は任せて一切口を出さない、そんな懐の深さもあった。

政治判断や人材登用は「全てにおいて公平無私」だった。藩閥や縁故は全くなかったという。特に維新の立役者薩長をどう扱うか苦心していたようで、維新は薩長の私心のためにやったと世間が思いはせぬか、そういう疑いを世間に起こさせてはならぬと、薩長藩は極力用いず、公明にした。「国家の難しい仕事がうまくいったのは大久保さんと木戸さんに拠るところが大きい。あの二人の公明正大な点は世人の想像以上であった」と部下だった河瀬秀治は回顧している。

実行力、担任力もあった。台湾出征問題であわや清と戦争になりかけた時には、自ら北京に乗り込み侃々諤々の交渉で、何とか日本で待つ政治家が納得する条件を引き出した。手柄はなるべく部下へ渡し、失敗責任は全て自分が負う。だから大久保のところには常に重要な相談が持ち込まれていた。

一方で、家庭に帰ると子どもとじゃれあって冗談を言う子煩悩な面もあった。子ども達はみな一様に「怒られた記憶がない」。教育熱心で「これからは海外の進歩的な学問を学ばなければいかん」と長男次男をアメリカに留学させた。友情にも厚かった。特に幼馴染みの西郷の西南戦争が噂になった時も最後まで「あいつは絶対に大丈夫だ」とかばい続けた。結果的に西郷蜂起の知らせを聞いた大久保は人前も憚らず涙を流したという。

インタビューでは皆が皆、故人を懐かしむように在りし日の思い出を語っている。話の途中で涙を拭う者もいた。「殺した奴が馬鹿じゃ。あの時代に殺すのは、天下を闇にするようなものであるというのが、分からなかったに違いない」と元陸軍大佐の高島は悔やみ、佐々木長淳は81才を過ぎてもなお「私は今も大久保公の遺志を全うしたいと思うのです」と偲ぶ。大久保が書いた格言を今も大切に持っていた。

元米沢藩家老で大久保に仕えた千坂高雅は、「自分の金を貯めようの、子孫のために産を残そうのという気はさらさらなかった。あの点は西郷と似ている。現に紀尾井町の変があったあと、調べてみると金はタッタ七十五円しかなかった。堂々たる内務卿が今なら一番金の貯まる位置だ (中略) 潔白極まる。負債は二万円ばかりあった。驚いたことに屋敷なども抵当に入っていた」と語った。彼の清廉潔白を物語るエピソードである。

維新三傑と呼ばれた西郷、大久保、木戸。この男たちが人生を賭して成し遂げた変革は日本が初めて経験するものだった。性格も思想も全く異なる3名の誰一人が欠けても維新は実現しなかっただろう。お互いに信頼し合い、真剣に意見を戦わせたからこそうまくいったのである。しかし人生は無常だ。明治10年5月木戸病死、同年9月西郷自刃、翌11年5月には大久保暗殺。まるで人生の終わりも打ち合わせていたかのように、3人とも同じ時期にこの世を去った。維新の終わりだった。

『西郷隆盛 南洲翁遺訓』 (角川ソフィア文庫) 西郷 隆盛、猪飼 隆明『西郷隆盛 南洲翁遺訓』 (角川ソフィア文庫) 西郷 隆盛、猪飼 隆明 1890年(明治23年)発行

西郷隆盛ほど起伏に富んだ人生を送った男も珍しい。朴訥としたいかにも田舎っぽい風貌でありながら、時の藩侯島津斉昭の懐刀として、華族や諸藩重鎮との間に幅広い人脈を築き、いつの間にか倒幕派の中心人物になっている。水戸藩慶喜を14代将軍に担ぎ上げて権力闘争を仕掛けたり、長年の宿敵だった長州とも手を組んで武力倒幕を企てたりと、とても地方の一藩士とは思えない八面六臂の活躍だ。そして極めつけが勝海舟との対談で実現した「大政奉還」だろう。結果的に改革を成し遂げた西郷は国家の中枢で大久保利通、岩倉具視らとともに新しい日本の枠組みを作り上げていった。

だから西郷が国家に反乱して西南戦争を起こした時、世間の誰もが戸惑った。あの温厚で人望厚い西郷がどうしたのか、理由は征韓論の意見の相違だけなのか、なぜ死を賭して戦を起こす必要があるのか、政治の中心にいたのだから如何様にでもやり方はあるではないか、憤懣遣る方無い一士族ではあるまいし・・。皆がそう感じた。しかし西郷は、愚直だ、馬鹿だ、止めろと言われながらも、維新で追いつめられた故郷に残る数万の薩摩士族のために勝ち目のない戦争を選んだ。結果はむろん薩摩軍の敗戦。西郷は故郷を見渡す城山で同胞らとともに自刃した。

溢れるほどの情熱家で大義のためなら死も厭わないといわれる西郷。彼はどのような思想を持っていたのだろうか。実は彼は自著というものを残していない。書簡や雑記などを除けば、本人の肉声が伝わってくるものとしては、没後関係者が編んだ「南洲翁遺訓」があるだけだ。なぜかくも多くの人間が西郷隆盛を讃えるのだろう。本書を読み解きながらその理由と人物像をまとめてみたい。

「南洲翁遺訓」は、戊申戦争後に薩摩を訪れていた庄内藩士が、西郷の口から直接聞き、書き記していた数々の講話をまとめたものである。発行は1889年(明治22年)、西南戦争での西郷の賊名が解けたのに伴い、庄内藩(山形県)の参事菅実秀は、同郷の三矢藤太郎、赤沢経言に編纂を命じたことがきっかけだ。なぜ遠く離れた庄内なのか。庄内藩と薩摩藩はかつて戊辰戦争で戦った同士であったが、西郷の戦後処理の寛大さと人柄に感動し、亡き後も庄内を上げて支援していたのである。そのような経緯で出来上がった遺訓集はおよそ1000冊。藩士らによって全国の同士に手渡しで配られたという。西郷を私淑する有志が懸命に編み、後世に遺そうとしたものなのである。

「南洲翁遺訓」は、全41条と追加2条からなっており、国を導く指導者がどのように政をおこなっていくべきなのか、その思想と姿勢を述べられている。

第1条の「廟堂に立ちて大政を為す・・」では、政治をおこなうものの要諦として「天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬ」「心を公平に操り、正道を踏み」「賢人を選挙し、能く其の職に任ふる人を挙げる」と、人の上に立つものは、私心を捨て、全ての物事を公平に扱い、人としておこなうべき道を真っ直ぐ進むべきだという。

西郷思想や人となりが最も感じられるのは「敬天愛人」について触れた21条、24条あたりだろう。「天地自然の道なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身みを修するに克己を以って終始せよ。」 第1条と同様に人の歩むべき道は天から与えられた道であって、学問も同様に天を敬い人を愛す事を目的にしなければならない。「己れに克つの極功は「毋意毋必毋固毋我」と云へり。」「いつしか自ら愛する心起こり、恐懼戒慎の意弛み、奢矜の気漸く長じ」では、自分自身に克つためには、私欲を持たない、我を通そうとしない、固執しない、独りよがりにならないこと、自分が可愛くなってくると、気が弛み、奢り自惚れの気持ちが出てくるから注意せよと説く。

29条ではこんな事も言っている。「道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬもの也」「事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有る」「若し艱難に逢ふて之を凌がんとならば、弥弥道をを行ひ道を楽しむ可し」「予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合わせ也」。生きているうちには色々な事がある。苦しいことも数多くあるだろうし、上手に出来る人も出来ない人もいるだろう。でもそんな事はあまり関係ない。天から与えられた道をまっすぐ歩けばいい。私などはいろいろな苦労をしているうちに今は動揺しなくなった。だから幸せだよ。なんとも前向きで明るい言葉ではないか。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉がある。その通りだと思う。若い時に経験した苦労や挫折、喜びは必ず将来になって生きてくる。西郷は若い時、ただ一人崇拝していた藩主島津斉彬公を突然失い、自暴自棄になった。政争に敗れ、僧侶月照とも入水自殺を試みたが、生き残ったのは西郷だけだった。後継藩主に疎まれ、死罪に等しい島流しにも2回遭っている。奄美大島3年と沖永良部島2年の計5年もだ。鳥羽伏見の戦いでは死を覚悟して陣頭指揮を取った。耐えて立ち上がって来たのである。

その苦労を糧として西郷は「世の中は天から与えられたものである(天道をおこなう)」「人間としてのおこなうべき正しい道を進む(正道を踏む)」「人に対して慈しみの気持ちを持つ(人を愛す)」を導き出したのだろう。それは西郷が親しんだ孔子によって体系化された儒学にも通ずるものだ。人間は、「仁(他人と親しみ、思いやりの心をもって共生を実現しようとするこころ)」と「義(私欲を捨て人として守るべき正しい道)」を持って、実践すること、机上の論理ではなく実際に行動することが重要であると言っているのだ。

西郷には思いやり溢れるエピソードが多い。奄美大島流しの際に、余った給与は島民に分け与え、自身は雨水が漏る古家に住み続けた。別れの際には島民全員が嘆き悲しんだという。東北戦争で敗れた庄内藩は厳しい報復を覚悟していたが、西郷は藩主を丁寧にもてなし、処分も行わず、寛大な処置を取った。感動した庄内藩は若者を薩摩へ派遣し、西郷の元で学ばせた。その感謝の気持ちが本編誕生の切っ掛けとなったのは述べた通りである。

多くの有識者もこぞって西郷の死を惜しみ、遺した功績の大きさを尊ぶ。辛口で知られる福沢諭吉は、自身の立場が危うくなるのを承知で、当時国賊とまで言われた西郷を擁護し、反対に国家の手法を批判した。教育家内村鑑三は自著「代表的日本人」で世界に向かって「西郷こそ日本を代表する男である」と推挙した。勝海舟も然り。近年では京セラ創業者の稲盛和夫が西郷の揮毫した「敬天愛人」を社の理念掲げ、若者を対象に私塾まで開いている。

本書は、西郷隆盛研究に造詣の深い猪狩隆明氏が訳した現代語訳、原文、そして猪狩氏の詳細な解説ノート(これが一番ページ数が多く読み応えがあり面白くもある)でまとめられている。平易な新訳だけでは子どもが読むならともかく生きた声が伝わって来ない。原文だけでは反対に知識不足で真意を読み抜かしてしまうところも出てくる。そういう意味では本書は最適であると思う。

『明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説』 (講談社学術文庫) 福沢 諭吉本書は、福沢諭吉が執筆した3つの評論「明治十年 丁丑公論(ていちゅうこうろん)」「瘠我慢の説(やせがまんのせつ)」「旧藩情(きゅうはんじょう)」を収める。発刊に携わった石河幹明によると「丁丑公論は西南戦争の鎮定後、直ちに筆を執って著述せられたるものの、当時世間に憚るところあるを以て人に示さず、爾来20余年の久しき、先生も自らこの述あるを忘却せられたるがごとし」で、他の2編もようやく明治34年に日の目をみている。

丁丑の年の1877年(明治10年)、日本近代史上最も大きな内戦となった西南戦争が起きた。征韓論を巡って新政府と対立し下野した西郷隆盛は、故郷薩摩で桐野利秋らとともに武装蜂起する。だが総力を挙げた政府軍の侵攻に薩摩軍は敗れ、西郷は城山で同胞とともに城山で自刃をした。

この戦争が世に与えた衝撃は大きかった。これまで新政府の中枢にいた薩摩による反乱だったこと、しかも首魁が人望の厚い西郷だったからなおさらだ。無念の思いは福沢諭吉も同様だったのだろう。政府やメディアが西郷批判を強める中、反論の立場をとり、西郷隆盛弁護のために本編「明治十年 丁丑公論」を書き起こしたのである。

権力を持った人間は専制になりやすい。政府の専制を放頓すれば際限なく、必ず悪い方へ向かう。これを防ぐのは「抵抗の精神」しかないと福沢は「自主独立」の重要性を説いた上で、西郷の挙動についても「日本の全国を殲滅するに非ず、また政府全体の転覆するにも非ず、わずかに政府中の一小部分を犯すのみ」と擁護する。むしろ薩兵の帰郷を許し、兵に給与を渡し、武器製造をだまって見て、間接的に暴発を誘導した政府にこそ原因があると批判する。

「西郷は天下の人物なり」。福沢は幕末から王制維新に至る過程で西郷が成し遂げた実績を讃え、如何に日本が狭いといっても、国法が厳しいといっても、人物一人を受け入れる度量もないのだろうか、他日、再び西郷を登用する機会もあるだろうにと早すぎるその死を惜しんだ。ペンを通して生涯政府批判を続けた福沢と武を使って抵抗を試みた西郷。互いに面識は無かったらしい。しかし相通ずる部分を感じていたのだろう。

「立国は私にあり 公にあらざるなり」の有名な一文で始まる「瘠我慢の説」は、明治24年に執筆したものを「丁丑」同様に石河幹明が明治34年1月1日に時事新報紙上で発表した。本編では幕府側にいた勝安房(海舟)と榎本武揚を槍玉に挙げ、崩壊前と後に取った行動に「瘠我慢の精神」が無いと痛烈に批判している。

福沢のいう「瘠我慢の精神」とは、語弊を恐れずにわかりやすく言うと、日本固有の武士の精神、大和魂のことを指す。小が大に、弱が強に立ち向かい、万が一敗戦濃厚になっても、決して降伏、逃走、講和をせずに最後の最後まで戦い抜こうとする抵抗精神、これが立国の要となる「瘠我慢の精神」であるという。「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり」「国家百年の謀において士風消長の為に軽々看過すべかざる」なのだ。

その考えでいくと、幕府に勝算無きと見るや、速やかに講和を結び、300年の政を解散させただけならまだしも、維新後にも政府高官に就いた勝海舟や敗戦濃厚な幕府側の将として軍艦率いて函館で奮戦するも、叶わずに降参、やはりその後に新政府で大臣を歴任した榎本武揚などは福沢には許せなかったに違いない。「人生の航路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとする時は富貴を捨てざるべからず」と行動の矛盾に不満を募らせた。

ただこれには異論反論が少なくないだろう。自決や戦死だけが正義ではないし、自身の能力を新しい環境で生かしていくのも人間の立派な義務であるはず。実際、勝が幕末に取った無血の維新は後世での評価も高い。発表後に福沢も考えるところがあったのだろうか、追って3週間後に発表された論評では批判のトーンを弱めている。

福沢は論争の挑み方も道理にかなっていて気持ち良い。本編も発表前にあらかじめ勝と榎本に原稿を見せ、決して個人攻撃ではないこと、両氏が取った行動について世に問いたいこと、事実間違いや意見があれば言ってほしい、と投げかけ、しかも両名から承諾の返信書簡も受け取っている。文筆一本で闘って来た福沢らしい正々堂々とした手法である。

その他、幕末外交の真相を綴った附記の「対する評論について」では、小栗上野介と仏公使の関係や横須賀製鉄所、下関砲撃事件の補償に群がる英仏のしたたかさが描かれており、資料としても興味深い。もう一編の在りし日の福沢との交流を綴った木村芥舟の「福沢先生を憶う」も涙を誘う。木村はかの咸臨丸で福沢と渡米した木村摂津守である。「旧藩情」は福沢の故郷中津藩の情態を纏めたもの。とは言っても当時の諸藩事情はどこも大同小異。江戸時代の身分制度や教育、風俗などがわかりやすく紹介されている。

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